65 元歎
赤龍さんの紹介と似てますが、僕の考えを書きます。(>>35はもう忘れてください(笑))

劉備が諸葛亮を迎えた、いわゆる三顧の礼のあった207年、荊州は北からの曹操の脅威にさらされています。そんな状況で「荊州・益州を支配し…このようになれば漢は復興…」というのは非現実的です。この時の諸葛亮の進言の内容としては、むしろ魏略のような差し迫った問題の対策(戸籍に関する軍備強化)の方がしっくりきます。
たとえこのとき諸葛亮の胸に天下三分があったとしても、それを話して劉備の評価は得られないでしょう。
だとすれば、天下三分の計を説いた時期は、益州奪取の可能性が出てくる周瑜の死後というのが適当だと思います。周瑜の死までは別の国家戦略があったんじゃないかと。


天下三分の計の構成が周瑜死後だとすれば、現実味を帯びた計であり明確な目標を与えてくれるものです。
しかし通説通り、三顧の礼の時だとすれば、非現実的で状況を理解していない計となり、現実的な天下二分の計の方が優れていると思います。いや、優れているというより、より真っ当な計画と言った方が良いですね。
(上段のように、周瑜死後に天下三分を提示したと考えれば、優劣等比較はできません。要は、天下三分を提示した時期によって評価が変わると思います)
(PC)
66 元歎
僕は、関羽敗死・荊州失陥から夷陵の戦いまでは別の国家戦略があったと思っています。荊州を回復し漢中興を成功させるための戦略です。
ただ、その戦略構成から破綻までが早すぎるため、夷陵の戦いは劉備の怒りに任せた侵攻であると後世には映ってるんだと思います。たぶん、それには趙雲伝の影響もあるでしょう。しかし、その戦略の核となる夷陵戦に反対したという記述は趙雲のみですから、諸葛亮も承認していた戦・戦略だったと思います。
従来、趙雲の諌止は、趙雲の戦略眼を評価することにつながっていますが、僕は、国家戦略を理解していないこと、武人的思考方法が表に出たものと捉えてます。


北伐に関して。
赤龍さんと同じく『三国志 きらめく群像』を要約すると、

北伐の目的はふたつあるだろう。一つは、国家の存在理由を実体化して見せることである。国名は「漢」なのだから、フリでも都・洛陽を取り戻そうとしないといけないからだ。もうひとつは、北辺の不安の解消である。いずれ魏が攻めてくるであろう北を抑えるためだ。……長安を取る気はない。まして魏を討つ気はない。そんなことは到底不可能だから――。

僕も基本的にはこの考えと同じで、加えて人口の問題もあると考えています。諸葛亮伝に「諸葛亮は西県の千余家を移住させ漢中に帰り」という記述があり、目的の一つとしてもいいほど蜀は人口に苦しんでいたと思います。移住させたという記述は(多分)これのみですが、他は魏に阻止された、途中で兵糧が尽きたと考えれば矛盾はありません。
(PC)