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過去スレ見てたら発見したのでアゲ!
面白い話しをしてますね。逆に天下二分計がその通り(劉備を立てる)計画であったのであれば、その前の孫権による、周ユ暗殺説が強くなると思いませんか?周ユを疑う理由がより強くなりますよね?
周ユ暗殺説の信憑性が問われてますが、自分は周ユ暗殺説は有り得ると思ってます。自分は劉備陣営による周ユ暗殺説を考えてます。まず周ユの後任が魯粛である事。そしてホウ統の存在。そして古傷の悪化。最後に劉備側にはあまりに都合の良い時期だった事。
なんで周ユは意見が全く噛み合ってなかった魯粛を後任にしたのか?少し不思議に捉らえる事も可能だと思います。
そしてホウ統、この頃はまだ孫権の配下ですよね?そのホウ統と言えば諸葛亮と親交があった。さらにホウ統はその後すぐさま劉備陣営へ・・・これも不思議に見えます。
そして古傷の悪化!コレが死因にしては余りに周ユは元気に飛び回り過ぎではないかと思います。或は飛び回り過ぎが原因の悪化かも知れませんが・・・
最後に説明不要で劉備陣営にとって都合が良すぎます。
コレに先ほどの孫権の関与を考えると周ユ暗殺はかなり簡単に行えそうでもありますし・・・皆さんの意見が聞きたいです。
(F901iC/FOMA)
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言うならば、天下三分にはどうしても周ユの存在が邪魔であり劉備陣営にとっては正に目の上のコブ。取り除きたいのは当然で、天下三分をするなら益州に攻め入らなければならない。しかし周ユがいる限り益州に攻める為の入口にあたる南郡が手に入らない。周ユは益州進出を睨んで江陵を落とした訳で、周ユが譲る事は有り得ない、さらには益州進出を狙っている。周ユは劉備が益州を狙っている事もわかっていたはず、つまり周ユがいる限り天下三分は無理。
暗殺の可能性は有り得なくはないと思います。
当時ホウ統は周ユの下にいましたし(実行犯か?)、魯粛は周ユ亡き後、後任なったと思ったら劉備に周ユが苦心の末に手に入れた江陵(周ユが正に死ぬ程の怪我してまで取ったのよ?)をあっさり貸し与えますし、孫権は周ユに許可を出した益州進出(その計画を実行する最中の死、ある意味遺言以上の事でしょ?)を行わないし、周ユは劉備が孫権に会いに行った時、すぐ手紙を書いて、却下されたと知るやいなや江陵から孫権に会いに行って(随分元気に活動?)さらには許可貰ったらさっそく準備して(やっぱり元気?)江陵に戻る途中に・・・これは何かあってもおかしくないのでは?と自分はやっぱり思ってしまいます。
(F901iC/FOMA)