7 ストラップ
>>6
この件に関しては、>>>55-25>>>55-32-34>>>145-9>>>及び、145-12-14なども参照の為に書いておきますね。
僕としては、関羽があまりにも調子良く勝ち過ぎた為、援軍の必要を感じられない位感覚が麻痺してたんじゃ無いかと考えています。


関羽が荊州を任された事についてですが、張飛伝に因ると、
「卒伍を善待して、士大夫に驕る」
とありますね。事実、>>>327-4にある様に、黄忠や馬超とは仲が良かった様ではありませんから、実は関羽は嫌われ者だったかも知れませんね。実際、劉封、孟達、麋芳、士仁、潘濬等は関羽のピンチに動きませんでした。
しかし一方劉曄は、蜀自体を、
「将は関羽のみ」
と評価しています。
以上二点から考えますに、「同僚からの嫌われ者」かつ「唯一有能」な関羽が、荊州に行く事になったのではないでしょうか?

尚、関羽を考察する際、どうしても廖立伝での評価を気にするところですが、皆さんこちらはどうお考えですか?
(PC)