73 赤龍
もし陳宮が、地元の有力者でエン州の統治に重要な人物とか、社会的地位が高い人物だったりしたら、政治的配慮で夏侯惇の上に置かれる可能性もあると思います。
しかし、呂布伝の原文を見ると「太祖将陳宮」とあり、将軍とは書いてありません。ほんとうに将軍位だったか疑問です。素直に「太祖配下の将」くらいに理解するべきではないかと思います。
そもそも、曹操自身が当時奮武将軍・エン州牧にすぎません。そうそう自分の部下を将軍クラスに任命できないと思います。実際主要な部下で将軍位についた人は他にもなかったと思います。夏侯惇も折衝校尉で、陳宮も将軍にはなってないとするのが妥当ではないでしょうか?
しかし、呂布伝の原文を見ると「太祖将陳宮」とあり、将軍とは書いてありません。ほんとうに将軍位だったか疑問です。素直に「太祖配下の将」くらいに理解するべきではないかと思います。
そもそも、曹操自身が当時奮武将軍・エン州牧にすぎません。そうそう自分の部下を将軍クラスに任命できないと思います。実際主要な部下で将軍位についた人は他にもなかったと思います。夏侯惇も折衝校尉で、陳宮も将軍にはなってないとするのが妥当ではないでしょうか?
(PC)
74 ストラップ
(PC)
75 赤龍
>>74
たしかにちくまの和訳の巻末の太守の説明に「太守はすべて将軍の名号を加える」とありますけど、後漢時代もそう断定していいのでしょうか?将軍でない太守もごろごろいるような。『後漢書』百官志にもそんなこと書いてないですし。軍事色の強い三国時代のことなんじゃないかなと思ったりもします。
そもそも、勝手に曹操が任命した太守でしょうし、校尉クラスでも問題なかったんじゃないでしょうか?
韓浩の台詞以外に、夏侯惇が将軍位についてたという記録も無く、伝を信じて折衝校尉で、後に建武将軍に任じられたとき初めて将軍職についたととる方が無難だと思います。
たしかにちくまの和訳の巻末の太守の説明に「太守はすべて将軍の名号を加える」とありますけど、後漢時代もそう断定していいのでしょうか?将軍でない太守もごろごろいるような。『後漢書』百官志にもそんなこと書いてないですし。軍事色の強い三国時代のことなんじゃないかなと思ったりもします。
そもそも、勝手に曹操が任命した太守でしょうし、校尉クラスでも問題なかったんじゃないでしょうか?
韓浩の台詞以外に、夏侯惇が将軍位についてたという記録も無く、伝を信じて折衝校尉で、後に建武将軍に任じられたとき初めて将軍職についたととる方が無難だと思います。
(PC)
76 ストラップ
そうですね。
董卓が死んだ時、後の大司馬である李カクでさえも校尉ですから、案外にも将軍というのは、そうそうなれるものではなかったのかも知れません。
官渡の戦いの際、曹操が関羽に贈ったのも将軍では無かったですよね?
我々が考える程には、将軍というのは多くはなさそうですね。
董卓が死んだ時、後の大司馬である李カクでさえも校尉ですから、案外にも将軍というのは、そうそうなれるものではなかったのかも知れません。
官渡の戦いの際、曹操が関羽に贈ったのも将軍では無かったですよね?
我々が考える程には、将軍というのは多くはなさそうですね。
(F2102V/FOMA)