74 叶兄弟
本来は新たに続編スレを立ち上げた方が良いと思うのですが(スレ主になる自信がまだ無くて…)ご容赦下さい。夷陵の戦について少し勉強しまして自分なりに仮説(妄想?)をたててみたんですが、先ず当時内政に従事していた孔明は益州一国支配ではやがて限界がくることを悟り領土拡大の必要性は感じていたのですがそれは劉備が推し進めていた呉方面(東征)ではなく魏方面つまり後々自身が行う「北伐」ではなかったか?という事、そして「法正が生きていれば…」という件は法正が生きていれば自分と同意見で二人で進言すれば劉備の目を北に向ける事ができたという仮説です。その根拠としまして@法正は元々涼州人で涼州方面の地理人脈に明るかったA蜀内で新に徴兵した兵卒混じりで東征するより漢中駐留軍で魏を攻める方が勝算が高かったのでは?(まして魏延は練兵が巧かった)B馬超・馬岱つながりで北方異民族と連携プレー可能C孫権は和睦したがってたので無理に東征する必要は無しC確かに人材不足だったが魏も世代交代の過渡期でチャンスあり(司馬イも未だ無名)等々です。ではなぜ孔明は劉備に進言しなかった(できなかった)のか…(スンマセン続きます)
(SO903i/FOMA)
75 叶兄弟
(続き)ではなぜ孔明は劉備に進言しなかった(できなかった)という理由を想像してみたのですが@孔明自身に実戦経験・実績が浅く、説得する自信が無かったA予想以上に劉備&荊州派閥の決意が固く、ツケ入る隙が無かった。(自身も一応荊州人ということもあって)Bひょっとすると、北伐となると攻めの中心は当然「魏延」になると思われますが、孔明はこれ以上劉備が魏延を重用する事が好ましくなかったのでは?(法正が生きていても魏延中心だとは思うのですが、劉備直接指揮とは度合いが違う)等々です。ここで劉備に話を戻しますが、やはり劉備は呉侵攻に望む気持は「私怨」の割合が高かったのではないでしょうか?こちらのサイトの「人名辞典」にのってた「秦ビツ」という人も東征を諌めて投獄までされちゃってますし…関羽の死から期間が空いたのも当時の習慣として喪に服す期間(張飛も相次いで殺されたこともあり)があったり、新たに兵力増員・練兵をしたりして準備万端フルパワーで呉に侵攻したかったからでないでしょうか?
まだ勉強途中の身で大それた書き込み、長文申し訳ないです…
まだ勉強途中の身で大それた書き込み、長文申し訳ないです…
(SO903i/FOMA)