83 諏訪
>>82
赤壁以前の劉備は地盤を持たない流浪の身だったことから、孫権とは対等の同盟関係ではなく、客将のような存在だったのでは、と考えています。
よって、赤壁の戦いのときも、その後の湖南四郡攻略のときも、孫権軍の一部将のような立場だったのではないでしょうか。

『黄蓋伝』には、黄蓋が赤壁の戦いの後に武陵太守に任ぜられて武陵郡の反乱を鎮め、その後、長沙郡の反乱も平定したことが記されています。
劉備が攻略した湖南四郡がそのまま劉備のものにならず、一旦孫権のものになっているのですから、劉備が孫権の客将的存在だったという傍証のひとつになるかと思います。

おそらく孫権としては、荊州の直接統治は難しいと考えたために、改めて劉備に湖南四郡を貸し与えたのでしょう。そして劉備が地盤を持つことによって、両者が対等に近い立場になったのではないかと思います。
荊州は孫権が劉備に「貸した」という認識が両者ともにあったことは、蜀側の史書も記しています。
(W51S/au)