87 飛燕
僕もあえて近畿とは言いません。当時の鏡や銅製品の頒布図を見ると、中国地方が文化の中心であったろうと思いますから。
そもそも僕には九州という位置にこだわっている理由がわかりません。赤龍さんの言ってることもわかりますが、だからといって九州という位置になってしまう論拠がわかりません。そしてこれは九州説の人全てに言える事だと思います。九州派の学説は曲解と言いました。それは学者さん達が、東夷伝をいかに読んだら九州という位置におさまるか、そう考えているようにしか思えないからなんです。つまり、九州にあったという論拠を示さず、九州にあったという仮説を勝手に推し進めてるようにしか思えないんです。

はっきり言って、僕はお二人ほど意見は固まってません。だからこそ、より説得力のあるほうになびくわけです。たとえ、「邪馬台国論争」が畿内説寄りといっても、九州説はいくら何でも仮説過ぎると思います。

日程とか>中世の事は良くわかりませんが、ムラ・クニ境でお祓いをしていた可能性があるそうです。
「日本書紀」によると、隋使・ハイ清世の場合(608年)、6月15日に難波津に泊まり、8月3日入京と1ヵ月以上要してます。
また、貞観13年の渤海使は、疫神祓いで入京まで5ヵ月かかってるそうです。
(PC)