89 朱家
他スレからで脈絡ないですが…
漢中王となった後、関羽に専行権(鉞と節)を与えてますので、完全な総大将ですよ。しかし外交権は印だと思うので、その権限はないですよね?呂蒙は表面上、友好を継続しますが、赴任してすぐに「関羽討つべし」を上奏してます。関羽もそれを察して、警戒を怠っていません。傲慢な態度も警戒してる(信用してない)からに思います。このような状況は劉備も分かってたはずなんです。関羽が蒔いた種ですけど、それを修復するのは、劉備、孔明の役割ではないですかね?もしくは戦いを覚悟して、援軍を送るとか(戦い詰めで劉備本隊に余裕はないと思うが)もちろん、関羽の責任は大きいですが、劉備、孔明にも少なからず責任があると考えています。しかし呉の兵糧を奪ってなければ、大きく変わった可能性は否定しません。
漢中王となった後、関羽に専行権(鉞と節)を与えてますので、完全な総大将ですよ。しかし外交権は印だと思うので、その権限はないですよね?呂蒙は表面上、友好を継続しますが、赴任してすぐに「関羽討つべし」を上奏してます。関羽もそれを察して、警戒を怠っていません。傲慢な態度も警戒してる(信用してない)からに思います。このような状況は劉備も分かってたはずなんです。関羽が蒔いた種ですけど、それを修復するのは、劉備、孔明の役割ではないですかね?もしくは戦いを覚悟して、援軍を送るとか(戦い詰めで劉備本隊に余裕はないと思うが)もちろん、関羽の責任は大きいですが、劉備、孔明にも少なからず責任があると考えています。しかし呉の兵糧を奪ってなければ、大きく変わった可能性は否定しません。
(EZ)
90 青龍
こちらでは初めてですね(^^)ヨロシクです。
朱家さんに連れられてやってきました。
関羽が荊州を任されたのは5年くらいですが、専行権を貰ってからその年にやられたのですよね?そんなとこから(浅はかですが)出過ぎたことというか、性格上舞い上がっていたのではないかと感じてしまいます。
呉を警戒していたとのことですが、そうなのですか?演義の話かもしれませんが油断しきっていた印象があります。
劉備や諸葛亮は仲間の裏切りのせい(兵が全く動かなかった)で気付かなかったと本で読んだ記憶かあります(曖昧ですが)。それが原因ならそれもまた関羽がまいた種ですよね?
朱家さんに連れられてやってきました。
関羽が荊州を任されたのは5年くらいですが、専行権を貰ってからその年にやられたのですよね?そんなとこから(浅はかですが)出過ぎたことというか、性格上舞い上がっていたのではないかと感じてしまいます。
呉を警戒していたとのことですが、そうなのですか?演義の話かもしれませんが油断しきっていた印象があります。
劉備や諸葛亮は仲間の裏切りのせい(兵が全く動かなかった)で気付かなかったと本で読んだ記憶かあります(曖昧ですが)。それが原因ならそれもまた関羽がまいた種ですよね?
(D901i/FOMA)
91 DJ SEIETSU
論の主軸にいる方々に横槍をいれてしまうかもしれませんが…
結果論で論ずると、責任という形になりますが、責任というものを論ずると確かに国の主という見方や一戦略の司令官という見方になるようですね。
この件に至っては、裏切、策略も絡むので、様々な意見が在り、決は人によりあるでしょう。
何故、関公が荊州城を治めたか?
何故、襄陽、樊城攻撃の命を受けたか?
私は、蜀の人材全ての総意だったと感じてます。
そして、誇り高き関公なれば、荊州での失敗を恥じ、現代における公の評をやや不満とするのではないかと感じてます。
しかし、事の成否とは別軸で、関公は己の戦いを貫いた事が後の評であると思います。
何も出来ぬ総大将という結果論は、あまりにクレバーな見解で私には悲しい。
【関羽派】である私の視点です。
結果論で論ずると、責任という形になりますが、責任というものを論ずると確かに国の主という見方や一戦略の司令官という見方になるようですね。
この件に至っては、裏切、策略も絡むので、様々な意見が在り、決は人によりあるでしょう。
何故、関公が荊州城を治めたか?
何故、襄陽、樊城攻撃の命を受けたか?
私は、蜀の人材全ての総意だったと感じてます。
そして、誇り高き関公なれば、荊州での失敗を恥じ、現代における公の評をやや不満とするのではないかと感じてます。
しかし、事の成否とは別軸で、関公は己の戦いを貫いた事が後の評であると思います。
何も出来ぬ総大将という結果論は、あまりにクレバーな見解で私には悲しい。
【関羽派】である私の視点です。
(W31SA/au)
92 しす
まず関羽を含め実績が残ってないことについては、もう蜀という国がそういう国だったから仕方ないとしか言いようがないですよね。
ま、もともとは荊州に拠を構えるまでは独立勢力というよりも、むしろ武を切り売りする傭兵軍団的な色が濃いように思われますので魏、呉と比較してしまうのも酷なのかもしれませんが。
ただ関羽の性格に問題があったとは言え、劉備の入蜀後に荊州を任せる人物として最も適任であったことも事実だと思います。
専行権を与えられて後にすぐ殺されてしまった件に関しては、彼に落ち度があったと言うよりもそこまで慎重に事を進めた呂蒙の手腕を評価すべきではないでしょうか。
ただ関羽が樊城を攻撃し、その余波が飛び火したことで曹操の尻に火がついたことも事実ですし、孫呉にしても放置しておけない状況に陥ったことは無視できないと思います。
むしろ魏にせよ呉にせよ、関羽の実力を重しと見たからこそ早急に叩き潰す必要があったのではないでしょうか。
ま、もともとは荊州に拠を構えるまでは独立勢力というよりも、むしろ武を切り売りする傭兵軍団的な色が濃いように思われますので魏、呉と比較してしまうのも酷なのかもしれませんが。
ただ関羽の性格に問題があったとは言え、劉備の入蜀後に荊州を任せる人物として最も適任であったことも事実だと思います。
専行権を与えられて後にすぐ殺されてしまった件に関しては、彼に落ち度があったと言うよりもそこまで慎重に事を進めた呂蒙の手腕を評価すべきではないでしょうか。
ただ関羽が樊城を攻撃し、その余波が飛び火したことで曹操の尻に火がついたことも事実ですし、孫呉にしても放置しておけない状況に陥ったことは無視できないと思います。
むしろ魏にせよ呉にせよ、関羽の実力を重しと見たからこそ早急に叩き潰す必要があったのではないでしょうか。
(PC)
93 青龍
DJさん>そのような意見(見方)は嫌いじゃないです。私は趙雲スレで「記述がない」とさんざん叩かれたので、その矛先を関羽に向けたまでです。
しすさん>「蜀という国がそういう国」とはどういった意味ですか?
「関羽が荊州を任せるのに適任であった」ですがあの場合、私もそう思います。ですが、それ故荊州を奪われた(関羽の)責任が重くなる気がします。
呂蒙の手腕についてですが、私は呂蒙を高く評価してません(関羽と比べてですかが)。そして、関羽に落ち度がなく呂蒙に負けてしまったとなると「関羽<呂蒙」という構図ができてしまう気がするので、それを無くすためにも落ち度があったと思いたいのです。
それと関羽(軍)の実力ですが、未来性はともかく当時異様に強かったとは考えづらいです。結局曹仁を攻めきれてませんよね。
しすさん>「蜀という国がそういう国」とはどういった意味ですか?
「関羽が荊州を任せるのに適任であった」ですがあの場合、私もそう思います。ですが、それ故荊州を奪われた(関羽の)責任が重くなる気がします。
呂蒙の手腕についてですが、私は呂蒙を高く評価してません(関羽と比べてですかが)。そして、関羽に落ち度がなく呂蒙に負けてしまったとなると「関羽<呂蒙」という構図ができてしまう気がするので、それを無くすためにも落ち度があったと思いたいのです。
それと関羽(軍)の実力ですが、未来性はともかく当時異様に強かったとは考えづらいです。結局曹仁を攻めきれてませんよね。
(D901i/FOMA)
94 朱家
専行権を貰い、やったるで〜はあったと思いますよ。
陸遜に交代してから、兵を動かすので、呂蒙を警戒してたと見ます。江陵が落ちなければ曹仁は倒したと思いますし、関羽一人で、曹仁、于禁、徐晃、呂蒙、陸遜を相手にしてる。逆に言えば、それだけ動員しないと関羽を討てないとの見方も出来ます。あえて図式にするなら「関羽<曹仁+呂蒙」ですね。曹操でも上にいけるか疑問です。
荊州の戦況を知る、知らないではなく、江陵問題を抱えたまま、うわべだけの同盟を継続させ、関羽が傲慢な態度で、さらに溝を深めたのに、対策を講じなかった劉備、孔明(法正?荊州関連は孔明だと思う)にも責任があるのではないか?という事です。
樊攻略は劉備の命ではなく、専行権を与えるにあたり、戦略を伝えただけと思います。しかし、孔明の戦略を無視した一方攻撃で、しかも中央突破、蜀(孔明)戦略をしっかりと伝えたのか怪しいと思います。伝えたのであれば、二年待て(呉との連携、劉備本隊の兵力の問題により)ぐらいは命じたはずで、それを無視するとは思えません。これも劉備の責任を感じます。
陸遜に交代してから、兵を動かすので、呂蒙を警戒してたと見ます。江陵が落ちなければ曹仁は倒したと思いますし、関羽一人で、曹仁、于禁、徐晃、呂蒙、陸遜を相手にしてる。逆に言えば、それだけ動員しないと関羽を討てないとの見方も出来ます。あえて図式にするなら「関羽<曹仁+呂蒙」ですね。曹操でも上にいけるか疑問です。
荊州の戦況を知る、知らないではなく、江陵問題を抱えたまま、うわべだけの同盟を継続させ、関羽が傲慢な態度で、さらに溝を深めたのに、対策を講じなかった劉備、孔明(法正?荊州関連は孔明だと思う)にも責任があるのではないか?という事です。
樊攻略は劉備の命ではなく、専行権を与えるにあたり、戦略を伝えただけと思います。しかし、孔明の戦略を無視した一方攻撃で、しかも中央突破、蜀(孔明)戦略をしっかりと伝えたのか怪しいと思います。伝えたのであれば、二年待て(呉との連携、劉備本隊の兵力の問題により)ぐらいは命じたはずで、それを無視するとは思えません。これも劉備の責任を感じます。
(EZ)
95 元歎
こっちの書き込みが増えましたね^^
外交権>諸葛亮が何も進言できなかった(しなかった?)ことから、外交に関する進言が許されている人物はいないんでしょうね。
>呉の兵糧を奪ってなければ
たしかにこれは、孫権にとっては絶好の名目となりましたね。于禁軍を破ったのは良いが、そのせいで兵糧が足りなくなったわけですから…難しいですね。
>呉を警戒していたとのことですが
確か、結構な数の守備兵を残してましたよ。でも、呂蒙が病気を理由に建業に帰ると言いふらしたから、関羽はそれを信じて守備兵をどんどん樊城の方につぎこんだんです。(一応、関羽は長江ぞいに見張り所を配置していたようです。でも、これって当たり前のような気が…)
DJさん>待ってましたよ♪ 関羽の話にDJさんが参加しないわけないですから(笑)
>劉備の入蜀後に荊州を任せる人物として最も適任であった
おお、これには大きく頷きます。でも、疑問なのが趙雲は荊州に残っても良かったのではないかということ。もしくはすぐに戻ってくるとか。張飛は益州攻略に必要ですから仕方ないですけど…関羽が軍を発する直前にでも、張飛か趙雲のどちらかは荊州に戻ってくるべきだと思うんですけどね。益州にいても大してすることはないはずだし。まさか…北方さんの小説みたいに、関羽が樊城を攻略した後にすぐ雍州にでるつもりだったとか…。でも国力がなぁ…
>「蜀という国がそういう国」とはどういった意味ですか?
多分蜀には史官が置かれておらず、そのため記録が少なく、当然史書に残るべきことも記録されていない、という意味だと思います。(でも、後主伝に史官が景星(めでたい星)を発見したという記述があるんですよね…)
外交権>諸葛亮が何も進言できなかった(しなかった?)ことから、外交に関する進言が許されている人物はいないんでしょうね。
>呉の兵糧を奪ってなければ
たしかにこれは、孫権にとっては絶好の名目となりましたね。于禁軍を破ったのは良いが、そのせいで兵糧が足りなくなったわけですから…難しいですね。
>呉を警戒していたとのことですが
確か、結構な数の守備兵を残してましたよ。でも、呂蒙が病気を理由に建業に帰ると言いふらしたから、関羽はそれを信じて守備兵をどんどん樊城の方につぎこんだんです。(一応、関羽は長江ぞいに見張り所を配置していたようです。でも、これって当たり前のような気が…)
DJさん>待ってましたよ♪ 関羽の話にDJさんが参加しないわけないですから(笑)
>劉備の入蜀後に荊州を任せる人物として最も適任であった
おお、これには大きく頷きます。でも、疑問なのが趙雲は荊州に残っても良かったのではないかということ。もしくはすぐに戻ってくるとか。張飛は益州攻略に必要ですから仕方ないですけど…関羽が軍を発する直前にでも、張飛か趙雲のどちらかは荊州に戻ってくるべきだと思うんですけどね。益州にいても大してすることはないはずだし。まさか…北方さんの小説みたいに、関羽が樊城を攻略した後にすぐ雍州にでるつもりだったとか…。でも国力がなぁ…
>「蜀という国がそういう国」とはどういった意味ですか?
多分蜀には史官が置かれておらず、そのため記録が少なく、当然史書に残るべきことも記録されていない、という意味だと思います。(でも、後主伝に史官が景星(めでたい星)を発見したという記述があるんですよね…)
(PC)
96 元歎
>関羽に落ち度がなく呂蒙に負けてしまったとなると「関羽<呂蒙」という構図ができてしまう
野戦で戦ったらどちらが勝つかはわかりませんよ。少なくともこの時、関羽は呂蒙と正面から向かい合っておらず、呂蒙は背後を襲ったので「関羽<呂蒙」とは言えないでしょう。(おそらく得意とするところが違いますね)
>関羽(軍)の実力ですが、未来性はともかく当時異様に強かったとは考えづらいです。結局曹仁を攻めきれてませんよね。
曹仁は守勢に強い将。周瑜も曹仁が守っていた南郡を手に入れるのに一年(だったっけ?)かかっています。何にしろ持久戦になっていたと思います。それを予想して(多分)関羽は兵糧を十分持ってきていたが、于禁軍が降伏したため兵糧が足りなくなり、呉との国境にある関所の兵糧を奪ったわけです。しかし、それでも兵糧は足らず、疲弊したところを(本当に疲弊していたかは不明。関羽<徐晃となってしまうのが嫌で…m(__)m )徐晃に打ち破られ、江陵に逃げようとするが既に呂蒙が占拠していることを知り、麦城に立て篭もる。そして降伏する振りをして逃走する。しかし潘璋の司馬である馬忠に捕らえられる。(斬首なのか戦死なのかは不明?) って、後半は概略になっちゃいましたね(汗) (降伏する振りをした…というのが残念です(T-T) )
もし、曹仁の樊城を落としていたら魏では反乱が相次いだでしょうね。事実、侯音(218年)や魏諷(219年)らが反乱・反逆してますし、盗賊も関羽の支党となってます。以下、関羽伝。『(ちくま訳)梁コウ・陸渾といった盗賊のうちには、はるかに関羽より印綬称号をうけて、彼の支党となるものがおり、関羽の威信は中原の地を震動させた。曹公(=曹操)が許の都を移してその鋭鋒を避けようかと相談すると〜(梁郟﹑陸渾?盜或遙受羽印號,為之支黨,羽威震華夏.曹公議徙許都以避其鋭,)
↑すいません、僕のパソコンでは表示されない字は?になってますm(__)m 携帯の方には、本当にすいませんm(__)m
野戦で戦ったらどちらが勝つかはわかりませんよ。少なくともこの時、関羽は呂蒙と正面から向かい合っておらず、呂蒙は背後を襲ったので「関羽<呂蒙」とは言えないでしょう。(おそらく得意とするところが違いますね)
>関羽(軍)の実力ですが、未来性はともかく当時異様に強かったとは考えづらいです。結局曹仁を攻めきれてませんよね。
曹仁は守勢に強い将。周瑜も曹仁が守っていた南郡を手に入れるのに一年(だったっけ?)かかっています。何にしろ持久戦になっていたと思います。それを予想して(多分)関羽は兵糧を十分持ってきていたが、于禁軍が降伏したため兵糧が足りなくなり、呉との国境にある関所の兵糧を奪ったわけです。しかし、それでも兵糧は足らず、疲弊したところを(本当に疲弊していたかは不明。関羽<徐晃となってしまうのが嫌で…m(__)m )徐晃に打ち破られ、江陵に逃げようとするが既に呂蒙が占拠していることを知り、麦城に立て篭もる。そして降伏する振りをして逃走する。しかし潘璋の司馬である馬忠に捕らえられる。(斬首なのか戦死なのかは不明?) って、後半は概略になっちゃいましたね(汗) (降伏する振りをした…というのが残念です(T-T) )
もし、曹仁の樊城を落としていたら魏では反乱が相次いだでしょうね。事実、侯音(218年)や魏諷(219年)らが反乱・反逆してますし、盗賊も関羽の支党となってます。以下、関羽伝。『(ちくま訳)梁コウ・陸渾といった盗賊のうちには、はるかに関羽より印綬称号をうけて、彼の支党となるものがおり、関羽の威信は中原の地を震動させた。曹公(=曹操)が許の都を移してその鋭鋒を避けようかと相談すると〜(梁郟﹑陸渾?盜或遙受羽印號,為之支黨,羽威震華夏.曹公議徙許都以避其鋭,)
↑すいません、僕のパソコンでは表示されない字は?になってますm(__)m 携帯の方には、本当にすいませんm(__)m
(PC)