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呉主伝なんかからは、孫権は劉表が死んだ時点から荊州進出を目論んでいたのがわかります。彼からすれば曹操に先を越されたのです。しかし隙あらば荊州に進出したいという野心は変わりません。
州境沿いで即応体制を取っていたのは守るためではなく荊州を攻めるためなのです。

また江陵を取ったあと、劉備が夏口に逃げ延びた段階での曹操に目を向けて見ると、
・荊州には独立・反曹的立場の劉備・劉キがまだ残っている
・劉備らは孫権と境を接している
・孫権は荊州進出の野心がある
といった状況です。
曹操としては劉備を捨てて孫権を攻めるわけはありません。劉備を討ち、そのまま揚州になだれこむ、なんてできればいいでしょうが、劉備と孫権が合力するのは避けたいはず。
そうなると孫権に例の脅しをかけ、孫権の介入に釘を刺す、ということになります。
まずは荊州。孫権には中立でいてくれればいいのです。
しかし魯粛や周瑜らにより劉備に協力し曹操と戦うことが決められ、見返りとしておそらく劉備・劉キと孫権の間で孫権の悲願ともいえる江夏・江陵など荊州諸郡の権益が保証されたのでしょう。
劉備の参謀かつ荊州人(名士)に人脈を持つ諸葛亮が孫権の元を訪れたのは、劉備も(独立派の)荊州人も孫権が荊州進出するのを認めたことを意味すると言えるのではないでしょうか。
(W31T/au)