9 大伴
棗祗(ソウシ)

@曹操の元で農業政策を執行した人物。任峻伝に、「軍事・国事に必要な物資が豊富になったのは、棗祗が発議して任峻が実現した結果である」とある。

A本来の姓は棘であったが、先祖が難を避けた時に改姓した。

B注に引く「魏武故事」に、曹操が義兵を起こした時、共に従い各所の征討に従事したとあるから、190年頃参入したと思われる。

C袁紹は冀州に入った後(191年以後)、棗祗を欲したが、棗祗は曹操に従い東阿の県令を引き受けた。

D194年、曹操の留守に陳宮と張バクが謀反すると、エン州で呼応しないのは、ケン城、范、東阿のみであった。呂布がそれらを攻めると聞くと、官吏と人民は恐慌きたしたという。陳宮は自ら東阿に向かうが、程イクの騎兵に倉亭津の私を切られ失敗する。程イクが東阿に到着した時、棗祗は官吏と人民を統率し激励して城の防備を固めていたという。

E後に大軍の食糧が欠乏した時、棗祗の東阿から補った様である。

F曹操が許を平定すると、棗祗は韓浩と共に屯田制を献策している。この時、飢饉と干バツで軍無いの糧食が不足していた様である。任峻伝には、「羽林監の潁川の棗祗」と記されている。

(つづく)
(F2102V/FOMA)
10 大伴
G屯田は、人民から募集して許の県下で行わせた。百万石の穀物を取り入れ、郡と国でいずれも田官を置き、数年のうちにいたる所で粟を備蓄した。袁紹の軍がこれの輸送を度々襲った。

H棗祗は屯田制の改正案を提出したが、曹操は迷い、荀イクと議論させた。棗祗の案は「田地分割の策」と表現されている。しかし荀イクは軍祭酒の侯声の言う従来の案(牛の数を基準とした様だ)とどちらが優れているか判断が出来なかった。それでも棗祗は信念を変えず、計算に基づき曹操に意見を述べた。曹操はこれに賛成し、棗祗を屯田都尉にとりたてた。この年は大豊作で、棗祗のその政策によって田地を増大させた。

I棗祗は早くに死んだ様である。郡の太守の官を追贈したが、尚その功績に相応しく無いと曹操は悔やむ。「もと陳留の太守」という記述があるが、追贈は陳留の太守か?又曹操は、侯にとりたてるのを当然と思いながら引きのばしている。棗祗の子、棗処中に爵位領地を与えて棗祗を祭らせ、不朽の事業を評価した様である。

J忠誠有能な天分をもつと、曹操は評価している。
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