93 圭破龍文
もう一つ反論するとすれば、孔明の戦略が荊・益二州による独立が最終目的であったとすれば、漢中奪取の後の関羽の荊州侵攻と劉備の本軍による長安侵攻の説明がつかないのではないか、ということです。天草さんは、関羽の荊州侵攻は関羽の独断の行動と思っておられますか?(実際そういう説もあるのですが) 北方謙三先生の『三国志』では、このときの”北伐”は、孟達・士仁・糜芳の裏切りと孫権の「裏切り」(いろいろ資料や文献を読むと、孫権の行動を裏切りと言い切るのは難しいので、あえて括弧書きです。)がなければ、成功していた、と書いてあります。僕もそう思います。
関羽がハン城を抜いていれば、呼応勢力を結集して宛まで進出するのは難しくなく、そこまで関羽軍が出てきていれば劉備本軍が長安を攻略できたはずで、そうなれば涼州は一気に劉備、というよりはこのころまだ生きている馬超のもとに帰順したはずです。
うまくすれば、洛陽、許昌まで席巻できたかもしれません。もちろん、これはすべてがうまく行った場合の話ですが、そこまで曹魏を追い詰め、一気に蜀と魏の差を詰める可能性を、孔明の戦略は秘めていたのだ、と思います。
夷陵大敗後の孔明の戦略には、僕自身もかなりの無理を感じます。やはり「荊州がない」という一点が、その原因ではないかと思います。
第一次北伐では、この点を解消するため孟達を再び寝返らそうと工作してますが、これは司馬懿の”速攻”で潰されてますね。その後の北伐は、漢中からの一方面作戦、しかも補給の困難な秦嶺山脈越えの作戦を余儀なくされているため、かなり絶望的なものになっています。
しかし、その絶望的な作戦を五度も続けたというのは、統一への情熱がなくてはできないことではないでしょうか。いきなり長文&駄文しかも連ガキで失礼しました。
関羽がハン城を抜いていれば、呼応勢力を結集して宛まで進出するのは難しくなく、そこまで関羽軍が出てきていれば劉備本軍が長安を攻略できたはずで、そうなれば涼州は一気に劉備、というよりはこのころまだ生きている馬超のもとに帰順したはずです。
うまくすれば、洛陽、許昌まで席巻できたかもしれません。もちろん、これはすべてがうまく行った場合の話ですが、そこまで曹魏を追い詰め、一気に蜀と魏の差を詰める可能性を、孔明の戦略は秘めていたのだ、と思います。
夷陵大敗後の孔明の戦略には、僕自身もかなりの無理を感じます。やはり「荊州がない」という一点が、その原因ではないかと思います。
第一次北伐では、この点を解消するため孟達を再び寝返らそうと工作してますが、これは司馬懿の”速攻”で潰されてますね。その後の北伐は、漢中からの一方面作戦、しかも補給の困難な秦嶺山脈越えの作戦を余儀なくされているため、かなり絶望的なものになっています。
しかし、その絶望的な作戦を五度も続けたというのは、統一への情熱がなくてはできないことではないでしょうか。いきなり長文&駄文しかも連ガキで失礼しました。
(PC)