98 巫俊(ふしゅん)
>>96
>>97
『三国志』蜀書、後主禅伝は「劉禅個人の人物像」を語っている伝記というよりは、「蜀国後期の年代記」としての性格を重視して執筆されてるとされ、劉禅個人の資質を描いているものとしてはあまり深く研究されていないと思います。
私の友人は諸葛亮の治政の暗黒面を指摘しているのですが、その説によると諸葛亮とその一派によって蜀書からは反諸葛の歴史観が一掃されており、後主禅伝はその歴史的曲筆のあおりを受けて劉禅個人の反諸葛的な思想の数々を記した史料が、蜀滅亡より以前の時点において消えてなくなったと解釈されています。
考えてみれば、後主禅伝というのは諸葛亮や漢中府の人間の史観によって骨抜きにされているとしか思えない内容で、蜀の中で非主流に転落していった思想や臣下勢力と劉禅個人のかかわりは一切書かれていません。
劉禅が無力な人間で政治を良臣に委ねたという解釈自体が創作されたものだとされています。
従って劉禅個人の暗愚性の可否を検討するには史料が足りない。或いは劉禅自身が諸葛派の権力を憚(はばか)って本心をひた隠しにし、劉禅自身を愚者の如き劣った人物として演出して振る舞うことで、賢者の師に接するが如く臣下(主に政権を握る諸葛派)を扱い、なんとか政治的均衡と自身の生命を永らえていた。。。
実はこのように考えると、
・諸葛亮と一派が次々に政敵を葬っているのに非難されないこと。
・蜀に史官(公式文書の記録係)がいなかったので陳寿が史料を得られなかったこと。
・蜀滅亡後の劉禅のしたたかで生命に危険を及ぼさない振る舞い。
こうした例からは、劉禅と諸葛亮派のあいだで駆け引きがあったことを匂わせます。
表面では互いに協調しているように見えて、そうではない本心がある、そういう構想で考えれば「暗愚」であることの意味も分かります。
「暗愚」を振る舞いにしていたんですから、暗愚(だけど平和ボケのイイ人)と評価されることは本人にとっても都合が良かったんじゃないでしょうか。
「ニヤリ」です。
>>97
『三国志』蜀書、後主禅伝は「劉禅個人の人物像」を語っている伝記というよりは、「蜀国後期の年代記」としての性格を重視して執筆されてるとされ、劉禅個人の資質を描いているものとしてはあまり深く研究されていないと思います。
私の友人は諸葛亮の治政の暗黒面を指摘しているのですが、その説によると諸葛亮とその一派によって蜀書からは反諸葛の歴史観が一掃されており、後主禅伝はその歴史的曲筆のあおりを受けて劉禅個人の反諸葛的な思想の数々を記した史料が、蜀滅亡より以前の時点において消えてなくなったと解釈されています。
考えてみれば、後主禅伝というのは諸葛亮や漢中府の人間の史観によって骨抜きにされているとしか思えない内容で、蜀の中で非主流に転落していった思想や臣下勢力と劉禅個人のかかわりは一切書かれていません。
劉禅が無力な人間で政治を良臣に委ねたという解釈自体が創作されたものだとされています。
従って劉禅個人の暗愚性の可否を検討するには史料が足りない。或いは劉禅自身が諸葛派の権力を憚(はばか)って本心をひた隠しにし、劉禅自身を愚者の如き劣った人物として演出して振る舞うことで、賢者の師に接するが如く臣下(主に政権を握る諸葛派)を扱い、なんとか政治的均衡と自身の生命を永らえていた。。。
実はこのように考えると、
・諸葛亮と一派が次々に政敵を葬っているのに非難されないこと。
・蜀に史官(公式文書の記録係)がいなかったので陳寿が史料を得られなかったこと。
・蜀滅亡後の劉禅のしたたかで生命に危険を及ぼさない振る舞い。
こうした例からは、劉禅と諸葛亮派のあいだで駆け引きがあったことを匂わせます。
表面では互いに協調しているように見えて、そうではない本心がある、そういう構想で考えれば「暗愚」であることの意味も分かります。
「暗愚」を振る舞いにしていたんですから、暗愚(だけど平和ボケのイイ人)と評価されることは本人にとっても都合が良かったんじゃないでしょうか。
「ニヤリ」です。
(PC)