1 中耳炎になったユウキ

諸葛センについて

諸葛亮の息子!!あまりスポットライトがあたらないですが果たしてその能力は?名声、地位、などみんなで語りましょう☆というか息子って一人だけ??
(P900i/FOMA)
18 ストラップ
>>16-17
>>13の感じからいうと、瞻かも知れませんね。
喬に関しては、(大分略しますが)
「喬は諸将の子弟と一緒に輜重をし、栄辱を勉強しています。喬は五〜六百人を率いています」
こんな感じでしょうか。
>亮与兄瑾書曰「喬本当還 成都、今諸将子弟皆得伝運、思惟宜同栄辱。今使喬督五六百兵、与諸子弟伝於谷中」

瞻に関しては、建興十二年の手紙として、
「今八歳。聡慧で可愛いのですが、早成の嫌いがあり、大きな人物に為れないのではないかと心配しています」
とあります。
>建興十二年、亮出武功与兄瑾書曰「瞻今已八歳。聡慧可愛、嫌其早成、恐不為重器耳」
(PC)
19 しす
瞻についと書いた手紙に関しては補足すると
「瞻は今已に八歳、聡慧愛す可きなるも、其の早成を嫌ふ。恐らく重器と為らざるのみ」
という記述ですよね。
この記述から見ると彼はこまっしゃくれたお子様だったと解釈すればいいのでしょうか。
そう考えると喬の兄、恪に似ているとも言える気がします。
そう考えると似たような子を持つ瑾に対してこのような手紙を送っているということは、切実な訴えなのかもしれませんね。
(912T/SB)
20 しす
>>18
先に原文書かれてましたねorz

まぁ、親にしてみれば深刻なのかもしれませんが、まだ八才のガキんちょなんだから長い目で見てやれよという気もしますよね。
(912T/SB)
21 雲畜斎
恪を絡めるとまた複雑になってしまいそうてすが、恪自身は大器には違いないですしね。それは父親の瑾も伯父の亮も認める所でしたが、同時に傲慢で大雑把な所も憂いてましたね。父親は「一族を滅ぼすだろう」とまで言ってますし、伯父はわざわざ陸遜に手紙を送ってまで恪の大雑把さを憂いてましたしね。

個人的推測ですが、瑾と亮の兄弟間での手紙のやりとりは、ある程度定期的に行われていて、その中で互いの子について都度触れられていたのではないかと。

しすサンの言うよーに、その中で瞻も早熟系だと言いたかったのかもしれませんね。

ただ恪と比べて、瞻は大器とは見ていなかったんじゃいでしょーか。
(N906imyu/FOMA)
22 朱家
諸葛瑾は、頭がキレて徳行に欠ける人は、余計な事を言ってしまうので、その事を心配してると思います。

>>20
単なる親バカで、本当に心配してる訳ではなく、ニヤケながら手紙を書いてるかもしれませんよ(笑)

諸葛瞻は、黄崇の進言を躊躇したり、トウ艾の襲来を速やかに姜維へ報告したのか疑問な点などは、恪に似てるかもしれませんね。
兵が分散すると思いますので、一概に諸葛瞻の選択を非難できないですが、後世の人である私には、トウ艾と平地で戦うのはね…トウ艾の威名を分かっていても、七十近い老人ですし、補給も断絶してますから、甘く見たのかなと。
てか、太守を歴任し、少なからず経験のある閻宇はどうした?まあ、ないと信じたいけど、諸葛瞻が「こちらは大丈夫」なんて言ってたら最悪(笑)
(PC)