1 大伴

麋竺、孫乾、簡雍

通俗演義では孔明登場後、どんどん影が薄くなる三名。三国志の許麋孫簡伊秦伝でも記述は少なく、陳寿の評も伊籍と四人纏めて述べられています。この三名は(麋竺は蜀書、季漢輔臣賛の弟の項目で名がでますが)、先主伝に数回名がでる外は、許麋孫簡伊秦伝にしか名のでない人達で、裴松之もまったく注で触れていません。

ここではそんな地味な三人について語っていきましょう。
(F2102V/FOMA)
24 天草
私は、こう考えます。

彼は陶謙に利用され、ろくな仕事も与えられないのに、配下に加わっていた。そこへ劉備率いる任侠軍団が現れる。何不自由なく生きてきて、その家庭環境から常に一線を置かれながら人と薄っぺらい付き合いを続けてきた麋竺にとって、彼らは新鮮で羨ましく見え、彼らに惹かれていく。

そこに曹操の徐州大虐殺が起こり、親戚・友人・知人が大勢殺され、曹操を恨むようになる。しかし徐々に力を付けていく曹操に歯向かおうという人間すらいなくなってしまった。
そんな中、劉備は国を持たない軍団でありながら、敢然と曹操に立ち向かっていく。その姿に麋竺は感銘を受け……妄想でした(笑)

何が言いたいかと言えば、徐州大虐殺と曹操、これが麋竺と劉備を結び付けたのではないかと。
(PC)
25 ストラップ
曹操自身は、麋竺が偏将軍の時に、一時的に郡太守にしようとしています。
天草さんの想像された様な事実があり、これはそれの懐柔策だったのでしょうか?

曹操としては麋竺を配下に欲しい訳では無い。が、劉備には渡したくない(力の無い劉備には大きな元手になるから)。だから仲間に引き込む。
↑こういう事を考えたかも知れませんね。


劉備―麋竺ラインは、全くの想像でしか語れませんし、私には良くわかりません。
(F2102V/FOMA)
26 大伴
話は変わりますが、確か通俗演義の孫乾は、関羽と共に曹操に降りますよね?
三国志には、「先主が曹公に背いた時、孫乾をやって袁紹と手を握った」とあります。
ならば、通俗演義の記述は、創作と考えた方が良いのですよね?歴史的事実である可能性はありますか?

そもそもこういう場合、使者は大急ぎで帰って報告をしますか?それとも、先に袁紹側から使者が出されますか?
(F2102V/FOMA)
27 天草
>>25に関しては、同意見です。
懐柔策というよりも、曹操も麋竺の経済力を欲したのではないでしょうか?

>>26の孫乾に関しては、調べてみますね。
(PC)
28 天草
確かに孫乾は袁紹への使者として、向かってますから、演義で関羽と曹操に降るのは創作でしょうね。

ってか、私はその演義のシーンを聞いたのが初めてなんですが(汗)関羽と一緒に投降したのは孫乾だけ?
(PC)