1 大伴

麋竺、孫乾、簡雍

通俗演義では孔明登場後、どんどん影が薄くなる三名。三国志の許麋孫簡伊秦伝でも記述は少なく、陳寿の評も伊籍と四人纏めて述べられています。この三名は(麋竺は蜀書、季漢輔臣賛の弟の項目で名がでますが)、先主伝に数回名がでる外は、許麋孫簡伊秦伝にしか名のでない人達で、裴松之もまったく注で触れていません。

ここではそんな地味な三人について語っていきましょう。
(F2102V/FOMA)
29 大伴
通俗演義の孫乾の動き、勘違いしていました。申し訳ない。

二十四回→孫乾、使者として河北に往くが、袁紹が兵を動かそうとし無い為、それを劉備にしらせる。
二十五回→(関羽が曹操に降る)
二十六回→(関羽、黄巾残党の征伐に往く)黄巾残党に身を寄せていた孫乾、劉備の噂を関羽に伝える。(関羽その後劉備の居所を知る)
二十七回→(関羽六将を斬る)孫乾、劉備が袁紹の元を離れた事を関羽に伝える。
二十八回→孫乾、以後関羽に同行し、汝南を目指す。

全然曹操に降っていませんでしたね(汗)
(F2102V/FOMA)
30 大伴
今日気付いたのですが……

三国志 →麋竺
通俗演義→糜竺

麋の字が違うのですね。
(F2102V/FOMA)
31 天草
三人の年代はどんな感じだったのでしょうか?もちろん死亡年とあわせて、調べられる方はいますか?私もちょっと調べてみようと思います。

彼らと劉備、それぞれの関係は良く耳にしますが、彼ら同士は仲が良かったのかな?同じようなポジションだけに実は嫌ってたりして…。
(PC)
32 大伴
孫乾を劉備に推挙したねは確か、馬融の弟子の鄭玄でしたよね?
孫乾は儒官であった可能性はありませんか?
(D505iS)
33 大伴
浴室でずっと>>32について考えていました。
鄭玄と廬植は共に馬融の門下。劉備は廬植門下ですから、ここで鄭玄とは繋がりがあったのでしょうね。
(D505iS)