1 大伴

麋竺、孫乾、簡雍

通俗演義では孔明登場後、どんどん影が薄くなる三名。三国志の許麋孫簡伊秦伝でも記述は少なく、陳寿の評も伊籍と四人纏めて述べられています。この三名は(麋竺は蜀書、季漢輔臣賛の弟の項目で名がでますが)、先主伝に数回名がでる外は、許麋孫簡伊秦伝にしか名のでない人達で、裴松之もまったく注で触れていません。

ここではそんな地味な三人について語っていきましょう。
(F2102V/FOMA)
39 大伴
後漢書、張曹鄭列伝によると、馬融のところで廬植と知り合ったのでは無く、廬植の紹介で馬融に師事した様ですね。

以下晩年の記述。
黄巾が青州にくると徐州に逃れ、陶謙に師友の礼で接された。建安元年北海に帰る。この後袁紹に招かえられ、弁舌をふるった。が、紹が位をやるといっても病を理由に家に帰った。建安五年の六月、七十四で没した。
(D505iS)
40 赤龍
陶謙は、公孫サン・袁術派に属していました。劉備が徐州支配を辞退した際袁術の名を出したのも、派閥の盟主的存在だからでしょう。しかし孔融らは、袁術を否定し、劉備を迎えた。これ以前も、陶謙、孔融等が連名で、朱儁に李確を討つよう要請。彼等は袁紹、袁術、公孫サン等関東の既存の有力群雄でなはなく、新たな実力者を求め、漢朝の秩序を再建せんとしたのでは?
(J-SA05)
41 赤龍
そして、次なる候補として期待されたのが、劉備なのでは?彼等がそろって劉備を推し、協力した背景にはそうした勢力があったのでは?
てなことを、昨日から考えてます。まだ雑で、根拠も薄い仮説ですが。
(J-SA05)
42 天草
孔融の気持ちはどうだったのでしょうか?
彼の事はイマイチ分かりませんが、劉備を立てようとしてたと思います?
(PC)
43 赤龍
私の仮説、まだまだ雑な状態なんで、あまりはっきりしたことは言えませんが、辞退する劉備に孔融が説得する記述が先主伝にあり、袁術よりも劉備と評価してたのは確かだと思います。孔融が黄巾に包囲された時に、劉備に救援を依頼し、たすけられたこともありますし。
(J-SA05)