1 天草

黄巾の乱

では私から新たな議題を提供したいと思います。
三国志の話しで常に最初に出る出来事『黄巾の乱』についてです。
@太平道は圧倒的な兵力を持ちながら、なぜドタバタ続きの官軍に勝てなかったのでしょうか?
A太平道の宗教的発起がどうして、略奪など悪質な賊に変わったのでしょうか?
Bそもそも太平道とはなぜあのような強大な勢力になったのでしょうか?
このような観点から、果ては「…だったら黄巾の勝利だった」と言うような意見まで何でもお待ちしてます。
(PC)
47 赤龍
ブログの方で問題になってた、黄巾の乱が起きた日。
『三国志』孫堅伝によると「三月甲子」(清岡さんによると19日)とあります。しかし『後漢書』霊帝紀には二月に反乱を起こし、三月戊申(3日?)何進を大将軍とし軍備を整え、壬子(7日?)党人に対し大赦令を出したとあります。また、皇甫嵩伝には三月五日宦官と内通し、内外から謀反をおこす計画があったものの、密告により事前に発覚。予定を早め、急遽挙兵したとあります(それがおそらく二月)両書で挙兵の時期のずれがありますよね。実際はどうだったんでしょうか?
(PC)
48 天草
ほほう…さすがは赤龍サン。
他伝からそれだけの情報が引っ張り出すのは難しいですよね。

それは置いといて…。
意外と同じ日に一斉に・・・ではなく、各所で微妙にずれていたのかも知れませんね。
つまり全ての記述は間違いではない…というのはどうでしょうか?
(PC)
49 ストラップ
あれ?甲子の日は三月五日で、蜂起自体は一月じゃありませんでしたっけ?
(D505iS)
どうもこちらでは初めまして。
ブログからこちらに話題が戻ってきてますね。
少しコメントをば。

三国志呉書の孫破虜討逆伝の初めの方は他の史書と比べると時間の記述が違ってきていて、曖昧に見えるんですよ。
例えば、妖賊の許昌を討った年が熹平元年となってますが、後漢書だと反乱→討伐の流れが断片的だけどくわしくあってだいたい熹平元年〜三年になっていて、邊章・韓遂が反乱し、張温に討たせたのが中平三年になっているのは後漢書と後漢紀だと前後のいきさつ込みで中平二年になっているとかです。
なので、どうも私は無意識に三国志呉書の孫破虜討逆伝の時間の記述をスルーしたようです(汗)
ただ三国志は現存する史書の中で、その時代を書いたものとしては最も古い史書であるという強みがあるんで、まようところです。

ちなみに後漢書に先行する史書の後漢紀でも二月に反乱を起こしていることになってます。まぁ、後漢書の作者が後漢紀を参考にしたのでしたら、ソースは同じなんでしょうね。

↓PCでしか見れないのですけど、昔、まとめたやつです。三月甲子の話はないんですが。
http://cte.main.jp/sunshi/w/w031003.html
http://cte.main.jp/sunshi/w/w031004.html
(PC)
51 天草
さすがに赤龍サンと清岡サンが加わると話しが詳しくなってきますね(;^_^A

黄巾の乱勃発の日の謎はもっと研究する価値がありそうですね!

もう一つ、私が挙げた疑問に八人の使者というのがあります。
彼らが誰だったのか?というのは憶測でしか語れませんが、何を目的としてどこに派遣された使者だったのでしょうか?
(N900i/FOMA)