1 大伴宿禰ゴジョウ

曹操軍の組織

建安二十年、孫権の率いる攻撃に接し、合肥では、張李楽の三将が合議によって、方針を決定しています。どうやら三名には、専任だとか、上位という順位付けが無かった様な記述です。無論、これが事実ならば、(この場合は上手くいきましたが)指揮系統の混乱が生じた可能性は高いでしょう。組織として脆弱な気がします。
又、李典と程イクは、建安七年、袁譚、尚の兄弟を攻める際、黎陽において明らかな命令違反を犯し、水路を確保しています。

曹操軍の組織は良く言えば柔軟なのですが、それは明らかに命令系統に不備があるのです。
現場サイドが勝手な判断で動いた事によって負けた戦は、過去に多数(たとえば、「泣いて馬謖を斬る」の故事で知られた、街亭の戦い)ありますし、最高責任者が複数居ては、意志決定に時間がかかりすぎます。

曹操軍の組織というのは、現代の観点からすれば欠点が多い様に、私には感じられるのですが、皆さんは如何でしょうか?是非意見をお聞かせ下さい。
(F2102V/FOMA)
59 八苦
曹操軍は確かに組織として指揮命令系統が大雑把な所がありますよねぇ。けど、あの広大な地方を治めるにあたっては、そのくらいの方が良いんじゃないですか?ガチガチの法で固めた秦の始皇帝や孔明の失敗がそれを物語っている気がしますが。現場の直感第一主義(臨機応変の才)こそが曹操が大大切にしたものだと思いますね。この感覚が曹操が配下に余り厳罰を下さぬ所以かと。大伴さんの話に続かなくてスミマセン。秦邵なる人物の知識はゼロなんです(;-o-)
(P2102V/FOMA)
60 赤龍
曹操に限らず、劉備も、孫氏も最初は地方の一群雄。雑多な人々で構成された、私的な軍団を拡大していくわけですから、組織の系統として雑なとこがあるのもやむをえないことだと思います。そしてそれは曹操軍に限ったものでも無いと思います。
(J-SA05)
61 八苦
赤龍さんどーも。そうかもしれないですね。劉備もダイブ大雑把な人事やりますもんね。こーゆー類の方が乱世で成功するんですかね?法による理詰めで政を行なおうとする様な輩ではとても勤まらない世界なのかもですね。
(P2102V/FOMA)
62 大伴
まぁ現代の観点で見れば不備が多いという事です。しかしそんな曹操軍も、官渡の戦いでの記述を読めば、袁紹軍よりは随分と整備されていた様ですね。

秦邵は旗揚げ当時の曹操を支えた人物の様です。曹操は彼の死後、彼の息子(曹真)を養子としていますから、何らしかの大きな役割が有ったのではないかと推測するのですが……彼等の事を思う時、曹植の「一将功成万骨枯」という言葉が思いおこされますね。
(D505iS)
63 大伴
>>62
私は勘違いしているのでしょうか?
曹真伝には曹真の父は曹ショウであるとありますよね。しかし注には、曹真は秦姓であったとあります。
曹真の父も曹姓なのでしょうか?秦姓では無く。皆さん如何でしょうか?
(D505iS)