1 大伴宿禰ゴジョウ

曹操軍の組織

建安二十年、孫権の率いる攻撃に接し、合肥では、張李楽の三将が合議によって、方針を決定しています。どうやら三名には、専任だとか、上位という順位付けが無かった様な記述です。無論、これが事実ならば、(この場合は上手くいきましたが)指揮系統の混乱が生じた可能性は高いでしょう。組織として脆弱な気がします。
又、李典と程イクは、建安七年、袁譚、尚の兄弟を攻める際、黎陽において明らかな命令違反を犯し、水路を確保しています。

曹操軍の組織は良く言えば柔軟なのですが、それは明らかに命令系統に不備があるのです。
現場サイドが勝手な判断で動いた事によって負けた戦は、過去に多数(たとえば、「泣いて馬謖を斬る」の故事で知られた、街亭の戦い)ありますし、最高責任者が複数居ては、意志決定に時間がかかりすぎます。

曹操軍の組織というのは、現代の観点からすれば欠点が多い様に、私には感じられるのですが、皆さんは如何でしょうか?是非意見をお聞かせ下さい。
(F2102V/FOMA)
70 どら
曹操は撤退戦の名手と大伴さんが言っていたのもありますから、「川上から攻撃するな。」と命令してた可能性もありますね。
撤退のスピードを考えると川下から攻撃するのが定石らしいですからね。ただし奇襲的に攻撃するのは川上側から。
…そんな時に敵の布陣に決定的な欠点を見つけたら…
(N2701/FOMA)
71 どら
「渡河して攻撃するな。」という命令があったとしても、目の前で撤退して行ったり、敵の陣に反乱など大きな混乱があったりしたら追撃しますよね。
見逃したら曹操に怒られそう…
つまり、曹操と李典の位置関係にもよりますが一概には「命令違反」とは言えないわけです。
もちろん曹操がその状況の変化を知った上での命令であれば全く違う事になります。
(N2701/FOMA)
72 大伴
水路の確保は、戦闘にのぞんでの事では無く、その前段階の移動手段のものでした。
曹操は危険だから陸路から攻めるようにと指示を出しましたが、二名は現地を見て、水路を用いる事を決めたようです。
(D505iS)
73 どら
分からないですね。具体的な軍議の資料が残っている訳ではないですからね。仮説ならいくらでも立てられますが…
(N2701/FOMA)
74 赤龍
李典、程イクの任務は兵糧の運送。船で輸送を行っていたが、敵に水路を断たれる。曹操は「船が通れないなら、船からおりて陸路を通れ」と命ず。水路の方が便利に決まってるが、無理せず確実にということでしょうね。しかし、敵に隙があり打ち破れると判断。諸将とはかり、敵を攻撃し撃破、水路を確保することに成功という流れです。
(J-SA05)