1 天草

天下三分の計

言わずと知れた、孔明の最初の献策です。

天下三分の計(概略)

この策について語りましょう!
(PC)
71 アラジン
まあ 最終的に諸葛亮の天下三分はまちがってはいないようです
(W42SA/au)
72 元歎
返信が遅くなってすいません。これからもちょっと遅れそうですが^^;

>>69-70
ちょっと朱家さんの文章を消化しきれないのですが、荊州を保持できると劉備らが考えていたとしたら、曹操の来襲を知って逃げるはずがありません。樊を捨てて逃げたのは、今の状況では荊州を維持できないという考えの表れであり、劉jのいる襄陽を素通りしたということは、奪えてもやはり維持できぬとの考えでしょう。
(奪うといっても、困難だと思いますが)

あと、魏略の記事に関して、「天下三分の計」と「軍備強化策」を比べて、時宜にかなってるのは後者の方だというだけで、僕は三顧の礼はあったと思ってます。出師の表を重視してるので。まぁ、演義みたいな三顧とは思いませんが^^;


僕が>>66で言った「趙雲が理解していない」国家戦略というのは、天下三分じゃなくて荊州失陥から夷陵戦までの国家戦略のことです…。孫呉の荊州を攻めることから始まる戦略。>>70の第一文を見ると、勘違いさせてしまったようで(汗)
(この戦略があったというのは、ただ僕の考えですが)

>>66の趙雲関連部分をちょっと言い換えます。
中原へ出るには荊州が不可欠ということを趙雲は理解していなかったのだろうと思います。加えて、曹操(曹魏)だけを敵と思い定めていた(※)から、東征に反対したのだと。

※ この、一度決めたことをまず変えない、というのを「武人的思考」と表現したのですが、今思えば良くない表現でした。熟慮しての発言じゃないことを強調しようと思ってのことでしたが…すいません。
(PC)
73 朱家
遅レスすいません。

孔明にしろ、魯粛、周瑜にしろ、国家戦略(方向性)の根本は同じです。
孔明が配下になったのは、曹操が鳥丸討伐中と思われ、圧力はなく、その後の圧力、周瑜の江陵奪取、それぞれ修正を迫られますが、あくまでも天下三分の一部である、荊州奪取という局地的な戦略の修正であって、国家戦略(方向性)は変化しません。国家戦略の変更は、劉備死後、荊州を諦めた時点でしょう。

劉備が逃げたのは、劉ソウが降伏したからで、曹操は侵攻体制を解いており、精鋭のみで劉備を追撃してますので、襄陽を取れば、曹操はそのまま攻撃できず、軍の立て直しを迫られます。
結果的に、魯粛はすでに荊州に向かってますし、孔明が考えるように、襄陽奪取が容易であるなら、維持できる、できないではなく、勝つか負けるかの赤壁のような、戦う体制にはなると思います。
(PC)
74 削除済
75 元歎
曹操が北にいても圧力はありますよ。その前に夏侯惇・于禁が攻めてきてますから。これは撃退しましたが、次またいつ攻められるかわからず、そのため劉表は劉備を新野に駐屯させていますし。

赤壁以前において、荊州保持はもちろん奪取も難しいと思います。蔡瑁・蒯越らが劉備に協力するとは思えないし、有力な内応者がいるわけでもありません。兵の多寡も歴然としてますし。状況が全然違いますが、益州奪取には内応者がいても3年かかっていますしね。

赤壁〜周瑜死去において、孫権との同盟と江陵奪取は基本的に両立しません。どちらも「天下三分の計」の柱だと思うのですが。また、益州奪取も周瑜健在ならば無理でしょう。僕が「天下三分の計」構築が周瑜死後と考える主な理由です。
(PC)