1 ユウキ

夷リョウの戦いについて

法正スレで夷リョウの戦いについての話題が出たんでスレ立てました孔明は東征に本心から反対だったのでしょうか?また諸将が反対した理由はなんだったのでしょう?賛成派はいなかったんでしょうか?皆さんの意見待ってます
(P900i/FOMA)
72 諏訪
呉軍は結果的に大勝していますが、蜀軍に夷陵まで侵攻を許したことで、武陵蛮などの反乱がおこり、蜀軍撤退後も鎮圧に奔走することになります。
陸遜の上疏に「この地(夷陵)を失えば、単に一郡の地を失ったというに止まらず、荊州全体が心配になります」とあります。
これは、後がない状況に追い込まれているともいえますし、その後心配いらないと述べていることも、孫権を安心させるためと捉えることもできます。
陸遜としては、可能であるならば、巫・シ帰で蜀軍を食い止めたかったのではないでしょうか。
(W51S/au)
73 諏訪
とはいうものの、群臣の多くが反対していますし、大敗したことは事実ですから、蜀にとっても厳しい状況だったのでしょう。
あくまで、蜀にもチャンスはあったという程度だと思います。
(W51S/au)
74 朱家
劉璋を益州牧として、国境を守備させてますし、夷陵が守備しやすい土地でもないし、引き込む策略とは考えてないですね。

黄権は単純に、どうしても補給が延びてしまうし、劉備が最前線に出向く事を、心配したのだと思います。逆に劉備は、魏がいるから長期戦を想定しておらず、短期決戦のために最前線へ、って感じだと考えます。

この戦いは、劉備に強烈な足枷が多くあるので、この状況では、たとえ曹操であっても、劉備と同じ事しかできないと思います(夷陵で対峙した後に限定)
劉備の勢いを止めた時点で、陸遜の勝利じゃないですかね。あとは、長期戦ができてしまった、曹丕が動かなかった事は、ファインプレーかも(笑)
(PC)
75 寿君
あぐっ!全部、朱家さんに書かれてしまいました。初めてお話させていただきます。寿君です。

劉備としては、呉班による誘引伏兵作戦が破れた時に、次の具体的な作戦を打てなかったのが痛かったと思います。
それにしても、この伏兵作戦、陸遜以外の諸将が攻撃を促した事から考えて、もし陸遜じゃなかったら…考えてしまいます。
また、逆にさほど巧妙な伏兵(まあ陸遜伝の書き方のニュアンスにもよりますが)とは思えないのに、諸将がこれだけ出戦を希望したのを見ると、ここまでの戦闘が本当に屈辱感ある敗走になって、ようやく夷陵で落ち着けたのではとも思います。
陸遜がギリギリで蜀軍の進撃を受け止めて、我慢に我慢して敵が弛緩した時に反撃した鮮やかな逆転勝利の典型だったんでしょうね。
しかし、いくら持久戦でも、あの崩れ方は劉備並びにフウ習の軍統率の粗相を否定できないと思います。
全軍の統括は、劉備は皇帝なので総司令・フウ習の役目になるんでしょうか?。
確かどこかのスレで、フウ習の夷陵の件に触れてたと思いましたが…。
(P905i/FOMA)
76 寿君
追記
あっ、でも勝利に驕って油断すると言うケースはいくらでもありますね。曹操でも宛城では油断して大敗しましたしね…。

それにしても、素朴な疑問として、劉備は荊州の地盤を奪取した暁には、一体誰を督荊州に据えるつもりだったのでしょうね。
魏延は漢中だし、後に諸葛亮と共に後事を託す李厳ぐらいしか思い浮かばないのですが…。
まあ、演義的な感覚なら、色々いますが。
もし勝てば、フウ習あたりを大抜擢するつもりだったのかしら…?。
(P905i/FOMA)