1 大伴宿禰ゴジョウ

曹操軍の組織

建安二十年、孫権の率いる攻撃に接し、合肥では、張李楽の三将が合議によって、方針を決定しています。どうやら三名には、専任だとか、上位という順位付けが無かった様な記述です。無論、これが事実ならば、(この場合は上手くいきましたが)指揮系統の混乱が生じた可能性は高いでしょう。組織として脆弱な気がします。
又、李典と程イクは、建安七年、袁譚、尚の兄弟を攻める際、黎陽において明らかな命令違反を犯し、水路を確保しています。

曹操軍の組織は良く言えば柔軟なのですが、それは明らかに命令系統に不備があるのです。
現場サイドが勝手な判断で動いた事によって負けた戦は、過去に多数(たとえば、「泣いて馬謖を斬る」の故事で知られた、街亭の戦い)ありますし、最高責任者が複数居ては、意志決定に時間がかかりすぎます。

曹操軍の組織というのは、現代の観点からすれば欠点が多い様に、私には感じられるのですが、皆さんは如何でしょうか?是非意見をお聞かせ下さい。
(F2102V/FOMA)
80 どら
その言葉を一軍の将が公言するという事は、当時の軍の考え方として一般的ではなく、一般的でないにしろ一軍の将といて許される考え方だったのでしょうね。
そう考えると、当時の将にとって君主の考え方を理解している必要性は近代より大きいものだと思います。
いくら正しくても結果を残しても君主に不審に思われたらいい評価はしてもらえないですからね
(N2701/FOMA)
81 ストラップ
曹操の幕僚と言えば、名は必ず挙がる婁圭ですが、実際はどの様な人物だったのでしょう?
確か氷の砦はかれの発案だったと記憶しています。知恵者であった事は確かなようですが、当人武勇に優れた様ですし、軍議における鼓舞係の様な役柄を担ったのでは無いでしょうか?
(PC)
82 ストラップ
魏書諸夏侯曹伝第九を見ていてですが、曹真は「太祖族子也」とありますよね?「族子」の中には養子も含まれるのですか?それとも元々父親の邵(秦邵と思われる)が親類だったのですか?
(PC)
83 ストラップ
>>82
今日改めて曹真伝を見ていたのですが、注に引く「魏略」と「魏書」では、邵に関する記述で二律背反する様ですね。
黄エンに殺されたとすれば、黄エンは初平年間に死んでいるし、興平年間に曹操を助ける事は出来ませんよね?
(F2102V/FOMA)
84 ストラップ
曹操の軍を考える時、趙儼という軍政家の果たした役割は大きいと考えます。
この人は各将軍の調整役を担っていた様で、建安十三年には都督護軍として于禁、張遼、張コウ、朱霊、李典、路招、フウ楷の七軍を統括していますし、十六年には関中護軍としてその方面の軍全てを監督しています。

この人は曹操の時代には、こういう将軍達の統率を任された人の様ですが、この人のこれらに類する初仕事は、協調しない穎陰、陽テキ、長社の三つの軍の参軍になり、三名を親睦させる事だった様です。
さて、この三名というのが、于禁、楽進、張遼なのですが、于禁も、この二名とは不仲だったのでしょうかね?
(F2102V/FOMA)