1 大伴宿禰ゴジョウ

曹操軍の組織

建安二十年、孫権の率いる攻撃に接し、合肥では、張李楽の三将が合議によって、方針を決定しています。どうやら三名には、専任だとか、上位という順位付けが無かった様な記述です。無論、これが事実ならば、(この場合は上手くいきましたが)指揮系統の混乱が生じた可能性は高いでしょう。組織として脆弱な気がします。
又、李典と程イクは、建安七年、袁譚、尚の兄弟を攻める際、黎陽において明らかな命令違反を犯し、水路を確保しています。

曹操軍の組織は良く言えば柔軟なのですが、それは明らかに命令系統に不備があるのです。
現場サイドが勝手な判断で動いた事によって負けた戦は、過去に多数(たとえば、「泣いて馬謖を斬る」の故事で知られた、街亭の戦い)ありますし、最高責任者が複数居ては、意志決定に時間がかかりすぎます。

曹操軍の組織というのは、現代の観点からすれば欠点が多い様に、私には感じられるのですが、皆さんは如何でしょうか?是非意見をお聞かせ下さい。
(F2102V/FOMA)
84 ストラップ
曹操の軍を考える時、趙儼という軍政家の果たした役割は大きいと考えます。
この人は各将軍の調整役を担っていた様で、建安十三年には都督護軍として于禁、張遼、張コウ、朱霊、李典、路招、フウ楷の七軍を統括していますし、十六年には関中護軍としてその方面の軍全てを監督しています。

この人は曹操の時代には、こういう将軍達の統率を任された人の様ですが、この人のこれらに類する初仕事は、協調しない穎陰、陽テキ、長社の三つの軍の参軍になり、三名を親睦させる事だった様です。
さて、この三名というのが、于禁、楽進、張遼なのですが、于禁も、この二名とは不仲だったのでしょうかね?
(F2102V/FOMA)
85 たま猫
>>1以前から興味深く読ませていただいましたが少し発言いたしたく思いました。よろしくお願いします。
当時の兵卒は「曹操の兵」ではなく「各将軍の兵」だったので三将軍に任せたのではないでしょうか?3トップで指揮が乱れるからといって2人の将軍の兵卒を1人の将軍の軍団に組み入れるという事は2の将軍の解任を意味したんだと思います。また混成された兵卒も所属の将軍の軍団として巧くまとめるには時間を必要としたと思います。
現代の軍隊組織の様に「国家」や「元首」というものの為に戦うというのでは無く「おら達の大将」的なものだったと思います。支配地域からの徴兵制で連れてこられた兵卒ですから…例え三人の将軍が仲が悪いとしても曹操としては、どうする事も出来なかったと思います。仲が悪いからと誰か一人(あるいは二人)では兵力が足りないと判断したのではないでしょうか…駄文、失礼いたしました。
(W32H/au)
86 諏訪
>>57-58
>>62-64
>>82-83

曹真がもともとは秦氏であったという記述は『魏略』にしか見られませんが、はたして信用できるのでしょうか。

これは根拠の無い推測ですが、曹爽が一族もろとも処刑されたために、曹爽及びその父の曹真は、じつは曹氏の血をひいていなかったということにされた可能性はないでしょうか。

私にはどうも、曹真の後の立場から、曹真が秦氏であったというのは疑問に思えます。
(W51S/au)
87 巫俊(ふしゅん)
・『三国志』魏書「曹真伝」

明 帝 即 位 , 進 封 邵 陵 侯 ,[二]遷 大 将 軍 .

・「曹真伝」裴松之注

[二] 臣 松 之 案 : 真 父 名 召β . 封 召β 陵 侯 , 若 非 書 誤 , 則 事 不 可 論 .

裴松之は『三国志』の本伝に曹真の父の名前を邵と書いているにも関わらず、魏の明帝の時代に曹真が召β 陵というところの侯に叙爵されていることに注意を促しているようですね。
実の父の忌み名を犯す封地を授けるというのは、確かに不審です。
(PC)
88 巫俊(ふしゅん)
>>87
>曹真の父の名前を邵
「邵」(しょう)という字、ケータイでご覧になっても召+βという字で表示されているでしょうか?
(PC)