1 大伴宿禰ゴジョウ

曹操軍の組織

建安二十年、孫権の率いる攻撃に接し、合肥では、張李楽の三将が合議によって、方針を決定しています。どうやら三名には、専任だとか、上位という順位付けが無かった様な記述です。無論、これが事実ならば、(この場合は上手くいきましたが)指揮系統の混乱が生じた可能性は高いでしょう。組織として脆弱な気がします。
又、李典と程イクは、建安七年、袁譚、尚の兄弟を攻める際、黎陽において明らかな命令違反を犯し、水路を確保しています。

曹操軍の組織は良く言えば柔軟なのですが、それは明らかに命令系統に不備があるのです。
現場サイドが勝手な判断で動いた事によって負けた戦は、過去に多数(たとえば、「泣いて馬謖を斬る」の故事で知られた、街亭の戦い)ありますし、最高責任者が複数居ては、意志決定に時間がかかりすぎます。

曹操軍の組織というのは、現代の観点からすれば欠点が多い様に、私には感じられるのですが、皆さんは如何でしょうか?是非意見をお聞かせ下さい。
(F2102V/FOMA)
92 バンビ
皆様お久し振りです!

最近婁圭について調べたら初平年間に婁圭の下風に立つ事を望まない王忠に破られているんですよね。
皆さんはさすがに知ってましたかね?
劉備にやられてかなり評価を落としていると思うんですが自分の中でもかなり下の評価だったんですけど皆さんの王忠の評価はどうですか?
(W54T/au)
93 徳操
はじめまして、バンビさん。徳操と申します。

王忠は曹丕即位の勧進帳では序列7位で名を連ねています。官位は雑号の軽車将軍でありながら、魏の衛将軍曹洪の上に来てるので、夏侯惇のように不臣の礼を受けていたのかもしれません。
(CA001/au)
94 バンビ
徳操さんはじめまして!

不臣の忠はさすがにない様な気がします。
憶測で申し訳ないんですが、曹丕は王忠の事を人肉を食べた事で馬鹿にしていますよね。それに他の武将(張遼や徐晃みたいな)に比べると目立った功もなく曹操が彼を溺愛したっていう記述(←ただ自分が知らないだけかも)も見た事がないっていう理由からそう思うのですがこれだけだと少し弱いですかね?笑


自分的には夏侯惇は特例だと思うんですよね。
やはり同族だったりその他の待遇で分かりますが。


曹洪の上に名を連ねているのは初耳です。
ただ上にあるだけって訳じゃないですよね?笑
(W54T/au)
95 徳操
妄想全開なんですが、王忠は曹操が呂布にエン州とられてピンチの時に、帰順したんじゃないかな〜と思っています。

王忠の序列については、渡邊義浩先生の「魏公卿上尊号奏にみる漢魏革命の正当性」が詳しいです。PDFで読めるので、ぜひ。
(CA001/au)
96 朱家
王忠は、魏公推挙も皇帝即位もかなり前の方に名前があり、影響力を持つ人物だと思われます。

王忠でも劉備を潰せなかったため(負けた訳ではない)、危険を承知で曹操自ら動いた、って解釈が妥当だと思います。感覚的に名士とは思えないので、私兵を抱える任侠的な長でしょうか。その後の記述がないため、さっさと私兵を譲渡し、尊重される存在となった感じだと考えます。

注釈で、記述そのものは呉質が暴走した話ですが、曹洪と一緒になって、太ってる曹真をからかった記述があり、これは曹丕が呉質のために招集した宴会での話で、曹真はこの時、上軍大将軍という、とんでもない高官であり、信憑性はともかく、そういう記述が残るという事は、曹丕とも一門とも仲は良さそうです。人肉の話も、そんな事を笑いのタネにできるなんて、かなり仲が良いのではないでしょうか。
(W56T/au)