1 大伴宿禰ゴジョウ

曹操軍の組織

建安二十年、孫権の率いる攻撃に接し、合肥では、張李楽の三将が合議によって、方針を決定しています。どうやら三名には、専任だとか、上位という順位付けが無かった様な記述です。無論、これが事実ならば、(この場合は上手くいきましたが)指揮系統の混乱が生じた可能性は高いでしょう。組織として脆弱な気がします。
又、李典と程イクは、建安七年、袁譚、尚の兄弟を攻める際、黎陽において明らかな命令違反を犯し、水路を確保しています。

曹操軍の組織は良く言えば柔軟なのですが、それは明らかに命令系統に不備があるのです。
現場サイドが勝手な判断で動いた事によって負けた戦は、過去に多数(たとえば、「泣いて馬謖を斬る」の故事で知られた、街亭の戦い)ありますし、最高責任者が複数居ては、意志決定に時間がかかりすぎます。

曹操軍の組織というのは、現代の観点からすれば欠点が多い様に、私には感じられるのですが、皆さんは如何でしょうか?是非意見をお聞かせ下さい。
(F2102V/FOMA)
97 諏訪
王忠らは形式的には漢臣であり曹氏の臣下でないということで、魏臣よりも高い地位にいたのではないでしょうか(軍師や三公は別格)
日本史でたとえれば、禄高では譜代大名よりも上にいた外様大名にあたるような存在だと思います。
(F07B/FOMA)
98 バンビ
ウッ!
もしや今まで王忠の事をへぼい奴と思っていたのは自分だけだったという事ではないですか(笑)

いや〜お恥ずかしい(照)

まだまだ修行が足りんですね〜(笑)
(W54T/au)