1 天草

黄巾の乱

では私から新たな議題を提供したいと思います。
三国志の話しで常に最初に出る出来事『黄巾の乱』についてです。
@太平道は圧倒的な兵力を持ちながら、なぜドタバタ続きの官軍に勝てなかったのでしょうか?
A太平道の宗教的発起がどうして、略奪など悪質な賊に変わったのでしょうか?
Bそもそも太平道とはなぜあのような強大な勢力になったのでしょうか?
このような観点から、果ては「…だったら黄巾の勝利だった」と言うような意見まで何でもお待ちしてます。
(PC)
84 魏延
馬元義自体は、太平道集団の中でもかなりの実力者だったことは後漢書の記述から確認することができます。数万人の民衆を引き連れて州を跨いで行進をおこなったようです。
個人的に、馬元義は太平道集団のパトロンとなった有力な豪族だったのではないかと考えています。もしそうであるならば、彼が洛陽内に1000人以上の内応者を得ていたことも、有力豪族のパイプを利用したことによって為したと考えられます。
この内応者の中には宦官等も含まれていたようですが、いわゆる十常侍クラスはいなかったようですし、その他がどんな階層だったのかはわかりません。
(941SH/s)
85 バンビ
とても納得のいくレスありがとうございます♪ヽ(´▽`)/

ですが、数万を引き連れての大移動は気付かれそうな物ですよね(笑)


黄巾軍は36万という数がいて意外にも統率が取れていたみたいだすが、張角に軍事的能力はあったのでしょうか?

張宝などは官軍を数が多いのもありますが、何度か苦戦させてもいます!

波才や張慢成などを任命するのにある程度は知っておかねばという気がしますが、豪族の中から選んだのでしょうか?

どう思われますか?
(ISW13HT/au)
86 魏延
推測なのですが、おそらくは各地方の有力パトロンに指揮を任せたのではないかと思います。
また、張角自身の軍事能力についてはわかりませんが、太平道集団自体の情報伝達能力はかなり高かったと思われます。なにせ、反乱の計画が露顕するやいなや直ちに一斉蜂起できるのは情報伝達がよほどスムーズでないと無理でしょうし。
おそらく、張角を中心とした各パトロンとの独自の情報ルートが存在していたのではないかと思います。彼ら上層部の動きを見るに、ただの民衆ではなくそれ相応の豪族だったのではないか。そうでなければ、張角が後漢朝廷に死蔵されていた書物(名前忘れた)を入手ルートがわからなくなりますし。彼らがその書物を回し読みし、張角がその中の代表格となって教団を運営していき、次第に武装化していった・・・そう考えればあの集団がどんな組織構造なのかなんとなく見えてくる気がしないでもないです。
(941SH/s)
87 バンビ
魏延さんのおっしゃる通り出来た組織だったんでしょうね!
公孫讃について調べていたら黄巾軍は軽重を持っていた事を初めて知りました!笑

フツーに考えれば持ってるか!って感じですが、自分のイメージが戦闘→略奪って印象があったので思い込みの類は怖いですな(笑)
(ISW13HT/au)