1 松永

質問致します

えんしょう配下の審配という文官は北方謙三の北方三国志にでてくるように忠烈だったのでしょうか?入れ墨として体に彫りたいんですがヘボかったら困るので…
(D252i)
36 袁家熱愛
以前、かの名作、横山三国志を読んで気付いたのですが、官渡の戦いあたり?で「審配と沮授は相いれず、仲たがいしております」という発言があったのですが、演義でも二人の仲が悪いという話は聞いたことがありません。事実であれば、参謀内の派閥の関係で仲は険悪だったのでしょうかね?
(912SH/SB)
37 巫俊
>>35
中国では王者は南面して座り、正午の南中した太陽の光を北から受けるのが神聖な聖王の習いです。

曹操に捕縛されて死を選んだから「北」を向いているのであって、これは審配にとって異常な状態です。
正しい配置は正南(整列して南面する)して袁尚の王座の後ろに控えるということであり、北を向くのは主君に申し訳ないということです。
(PC)
38 袁家熱愛
ご教授感謝です。成る程…。字とは逆の状態で主君に一礼、というより謝罪したのですね…。そこがまた、深い、特異な感じがします。審配はよく戦ったと思いますが。自分はてっきり、河北、北方に大勢力を持った、袁家に最期の礼をしたのかと思っておりました。
(912SH/SB)
39 寿君
呉が一度襄陽を曹操が死んだどさくさに紛れて落としたと言う話を耳に挟んだのですが、「晋書宣帝紀」を見ると、曹丕が(おそらく専念の関羽の攻撃と洪水が原因と思いますが)ボロボロの襄陽と樊を棄却して曹仁に宛に引き退くように命じてます(司馬懿は反対しますが)。
でも晋書では「孫権は動かなかった」とあるし、呉主伝には220年内の事は、南陽郡内の5つの県の住民が帰服した事と、梅敷って人物が帰属したとあります。
ちょい詳しくないのですが、梅敷って襄陽と江陵の間に勢力を持っていた豪族でしたよね?。

襄陽を落とした記述はどこにもないし、襄陽・樊を曹丕が棄却したって事は。ぶっ壊れた空き城をいただいただけに思うのですが、この一件。かなり孫呉の勢力が北に伸びたように見えますが、夷陵戦後には江陵に押し込まれてます。
何やら複雑な状態なんですが、どういった状況なんでしょうね。
確か、孫権は魏には臣従している状態のはずだったと思うのですが…。

いや抜け目ないなぁ〜と言うか…。
(P905i/FOMA)