7 ストラップ
>>6
概要は
http://ip.tosp.co.jp/Jisyo/TosiJ100.asp?I=359gi&P=0&SPA=2&SSL=&K=李典&Nid=&C=0&Ud=5871932&MD=
に譲るとして。

李典は従兄弟の李整の兵をその死後に受け継いだ様です。李整は、曹操が呂布からエン州を奪還した後に死去したようですから、興平二年頃に軍事に関わる様になったのではないでしょうか?
元来軍事を好ます、読書が好きだった様で、曹操は初め、民政家として用いたとあります。

李典が夏侯惇の暴走を抑えようとした話は残っています。
建安八年、劉表軍にいた劉備が北上して葉を攻めた際、そこを防いだのが夏侯惇と李典でした。劉備が陣を焼き払い退くと、李典が「必ず奇兵がいる(賊無故退、疑必有伏。南道狹窄、草木深、不可追也)」という諌めを聞かず、夏侯惇は追撃をしました。結局夏侯惇は伏撃にあいますが、李典の救援で助かったのです。

張遼の武勇ばかりが強調されますが、合肥の戦いに於いても、李典は重要な役割を担っていると僕は考えます。「私」よりも「公」を重要視すると李典が明言した事が、張遼の活躍に繋がった訳ですから。
(PC)
9 赤龍
李典は、辞典にもあるように享年36の若さで没。彼の伝に見える最期の活躍は215年の合肥の戦い。文帝即位時には確実に死んでいることから215〜220の範囲に死んだことになります(もっと絞り込める方お願いします)。
仮に215年、合肥の戦の年内に死んだとしても、生年は180年。曹操旗揚げの際はまだ10歳。ちょっと演義の設定は無茶ですね。
正史では、従父李乾が初平年間(190〜193)に軍勢をつれ曹操に従うとありますが、李典はその軍中にいた若者に過ぎないでしょう。李典の活躍はストラップさんのいわれるように、李整の死後軍をついでからと思われます。
(PC)
10 赤龍
李整の最後の活躍は、エン州の奪還の際(195)ですが、李整はそれから次第に出世し、青州刺史にまでなったと書かれてますから、もう数年は生きていた可能性が高いように思えます。
そして、李典の名が見える最初の活躍は、ようやく官渡の戦い。李典が軍を継いだのは196〜199あたりなのでは?と思います。それでもようやく十代後半程度。
主な活躍は官渡あたり以後になる、若手の武将だったのではと思います。
夏侯惇が諫言を無視したのも「若僧めがえらそうに」てな気持ちがあったのかもしれないですね(笑)
(PC)