1 茶雨

陸抗について

呉末期・暴君孫コウに支え長い間呉を支え続けた名将。 彼についてなんなり語りましょ〜 私は・・・後から語ります。 口を開くとノンストップなのでソ
(A1402S/au)
31 珠樹
失礼いたします。
>>>18についてですが、反逆罪は族誅、というのが中国における一般的な処罰です。
歩センの場合、西陵一城まるごと呉に背いていますから、たとえ陸抗が処刑せずとも、ほぼまちがいなく族滅となったでしょう。
また、陸抗は歩氏一族や幹部クラスの将校は処刑しましたが、その他の数万に上る将卒は赦免しています。
このあたり、国情と刑罰のバランスをわきまえた人といえるのではないでしょうか。
(F902i/FOMA)
32 巫俊(ふしゅん)
>>31
裴注を確認しましたが、この部分で問題になっていることは幼い子どもの命まで奪ったことです。
子ども殺し事件を問題にしてるのは裴松之自身ではなく中世初期の有識者の談なので、陸抗の行為が問題になったのも時代的な背景があると思います。
東晋時代以降は族誅や逆賊討伐の名目で幼児殺害の風潮がますますエスカレートしていきましたから、陸抗は有識者たちの槍玉として丁度よかったのだと。
私個人の感想からしますと、法律に基づいての族誅というなら国家の裁可を仰ぐべきで、陸抗の個人プレーだと解釈される場合はやはり問題になることだと思います。
ただ個人プレーと解釈する場合は陸抗を一将軍に過ぎないという見地から断罪してる訳で、国家の事業を代行する陸抗に子どもを殺害する権限が公然と存在していたのかどうかが、評価の分かれ目だと思いますね。
(PC)
33 巫俊(ふしゅん)
当たり前のことですが、陸抗の行為は現代的価値観からすると人道に対する罪で国際法廷ものです。
将来の禍根を絶つためうんぬんは弁解にもなりません。
ふつうの歴史学ではこういう人権問題の歴史は「現代の価値観で過去の歴史を裁くものだから」と敬遠されるんですけどね、
この部分の裴注を見れば子ども殺しを悪習とする風潮もしだいに中国社会に形成されてきたことも分かるので、面白いなと思ってます。
(PC)
34 ストラップ
「遜卒時年二十」から計算すると、陸抗は陸遜四十八の時の子で、陸遜って上原謙並だなぁ何て思うのですが、字幼節から推測するに、末の子ですよね?
家督を継いだ事から考えるに次男なんですかね?

延の死語、ずっと男子がいなかったのでしょうか?
(F2102V/FOMA)