25 しす
(PC)
26 赤龍
私もまだカク普には弁明の余地があるんじゃないかと思います。特に演義のイメージでは同列にするほどでもと。
ただ、この像にも多少そうした配慮があり(?)古参であり、劉備の姻戚でもあるのに降服した麋芳が最も重罪で、首かせをつけ、手足を鎖でつながれています。そして、士仁は手足をつながれ、呂蒙の計略で降ったカク普は足だけをつながれている、というように。
潘濬は入ってません。演義で呉に降った事が書いてないから(演義は未確認)、まずその存在が気にされてないのかも。喜ぶべきやら、悲しむべきやら。
ただ、この像にも多少そうした配慮があり(?)古参であり、劉備の姻戚でもあるのに降服した麋芳が最も重罪で、首かせをつけ、手足を鎖でつながれています。そして、士仁は手足をつながれ、呂蒙の計略で降ったカク普は足だけをつながれている、というように。
潘濬は入ってません。演義で呉に降った事が書いてないから(演義は未確認)、まずその存在が気にされてないのかも。喜ぶべきやら、悲しむべきやら。
(PC)
27 諏訪
『関羽伝』では、麋芳・士仁は関羽と不和であったために孫権を招き入れたように書いていますが、『呂蒙伝』注の『呉書』によると、士仁は虞翻に会見を申し入れられても受け入れず、「勝ち目はないから降服しろ」と手紙を送られて、涙を流して降服しています。
そして麋芳は、士仁の姿を見て、降服しています。
この記述を信じるならば、麋芳・士仁はやむをえず降服したのであって、責めるのは酷な気がします。
そして麋芳は、士仁の姿を見て、降服しています。
この記述を信じるならば、麋芳・士仁はやむをえず降服したのであって、責めるのは酷な気がします。
(W51S/au)
28 寿君
確かに、呉書を読んで麋芳が投降せざるを得なかった原因として考えられるのは、
「関羽の前線への兵力投入による、守備兵力の低下」
であり、関羽と最悪なまでに仲が悪かったような感じではなく、「どうしようもなくなり」とも取れますね。
蜀書ではこの時、呉に降伏した人物に(郭普まて一緒に)、「裏切り者」として批判的に書いてます。
陳寿が蜀の人間であった事を考えれば、案外呉書の記録の方が冷静に見てるかも知れませんね。
僕も一概には麋芳と士仁を決めつける事はできないと思ってます。
むしろ、この場合、呂蒙の奇襲が見事だと思います。
「関羽の前線への兵力投入による、守備兵力の低下」
であり、関羽と最悪なまでに仲が悪かったような感じではなく、「どうしようもなくなり」とも取れますね。
蜀書ではこの時、呉に降伏した人物に(郭普まて一緒に)、「裏切り者」として批判的に書いてます。
陳寿が蜀の人間であった事を考えれば、案外呉書の記録の方が冷静に見てるかも知れませんね。
僕も一概には麋芳と士仁を決めつける事はできないと思ってます。
むしろ、この場合、呂蒙の奇襲が見事だと思います。
(P905i/FOMA)