1 しす

邪馬臺國(邪馬壹國?)

先日チャットでも話題にでました邪馬台国について語るスレです。
邪馬台国はどこなのか?
卑弥呼とは何者なのか?
思う存分語りましょう。
(PC)
97 赤龍
>>96
もう解決されたみたいですが、後漢が滅びたのは220年ですから、教科書は問題なさそうですね。
ちなみに、3世紀は201〜300までですよ。これ結構間違えやすいので重要。近年も1999年が世紀末で2000年が新世紀と勘違いしてる人がちょくちょくみられましたから。「紀元(もしくは紀元前)0年なんてものは存在しない」つまり、スタートは「1」ということを覚えておくとわかりやすいですよ。
(PC)
98
>>97
いやぁお恥ずかしい↓↓↓まだ間違っていたなんて"笑、勉強しないとダメですね。ですがこの日本の使者が朝鮮につくまででも結構時間がかかったのでしょうね。九州説で行けばまだ近いでしょうが…。都まで着くのに何日かかったんでしょう?
(W32SA/au)
99 飛燕
>>89
説得力あるなぁ、赤龍さんは…。
ですが、どうも北部九州に限定してしまうことに納得できません。連合という形を考えれば、九州島というのはぴったりかもしれませんが…。

「部族的集団」「統一できていない」とは高地集落の存在をいっているのでしょうか。この遺跡の分布を見ると、ほぼ大体が瀬戸内海に寄ってます。そのことから、中国地方と四国地方の勢力が争っていたとも考えられなくもありません。つまり、ある程度はまとまっていたのではないかと。
それに邪馬台国そのものに、それほど固い統一感があったのでしょうか。卑弥呼が死んで簡単に瓦解しているので、それほど強い結束力はなかったと思います。

また、赤龍さんはいかにも、九州>中国といっているようですが、断言できる事実ではないと思います。多少は劣っていたでしょうが、ほぼ対等だと思います。それは、どこかで言いましたが鏡の出土分布を見ても、王莽の造った貨幣が中国地方で点々と見つかっていることからも、わかるはずです。これら大陸の文化が、九州を窓口として、入ってきたものならば、相当密接な関わりを持っていたのでしょう。

九州が文明を受け入れる地であることに異論はありません。ですが、中国地方を「東の倭種」とばっさり切り捨ててしまうことに疑問を感じるのです。

中国地方が九州を支配できる力を持っていたか、よくわかりません。ですが、神話がこの地で生まれたことを考えると、九州とは違う、独特の文化を持っていたことは否めないと思います。
(PC)
100 赤龍
対馬国から奴国あたりまでの国の位置に関しては、現在おおむね異論がなく、九州北部の国ということで定着しています。
もし邪馬台国が中国地方にあったとすれば、出雲なり吉備なりの勢力が九州北部の国々をゆるやかな従属関係であれ、支配化におさめてなければならないことになります。
飛燕さんのいわれるように、吉備・出雲は九州とは違った独自の文化を持っていました。これがむしろ、それぞれが別勢力だったことを感じさせます。飛燕さんの説を成立させる為には、反対に文化的共通点などを探し、ひとつにまとまっていたことを証明する必要があるのではないでしょうか?
私は国の力自体が「九州>中国」とは言っていません。地理的により可能性が高いと言っているのです。
中国地方で、中国の鏡や貨幣が見つかっていることについては、交易やら、それを入手した国が頒布したことも充分に考えられます。また鏡の分布についても、位置的に真ん中にあるだけで、中国地方が当時の中心地とするには難があるように感じます。
(PC)