32 赤龍
>>15
古い話で申し訳ありませんが、久々に宮崎市定先生の『大唐帝国』を読んでいたら
「学問の道にはいって、いわば儒教の教徒となると、当然のことながら儒教の規律である礼を守らねばならなかった。とくに親には孝行をつくし、兄弟には友愛をつくすことが要求された(中略)両親ともなくなったあとは遺産相続が行われるが、なるべく自分の分を少なくして兄弟にゆずり、廉潔であることを証拠だてなければならない」
という一文がありました。
これを読んでいたとき、ふと孫策が爵位を孫匡に譲ったことと関係あるかも?と思いました。
もちろん、これが全ての理由とは断言できず、>>18で朱家さんが仰る、野心を韜晦する手段という理由も考えられますが。
しかし、当時は儒的な価値基準が重視されていた時代。弟に譲ることにより、自分の名声を高めることを狙った可能性も考えられるのではないでしょうか。
また、以前、孫堅の死から孫策の活動が表面的になるまでの、いわば雌伏の期間。これが儒の定める「三年の喪」の期間にあたるのでは?という指摘をされた方がおられました。これについては要検証ですが。
こうした方面から考察すれば、孫策について別の一面が見えるかもしれない。なんてふと思いました。
読書中の全くの思いつきなので、根拠は全然無い、無責任な話ですが。
(PC)