1 大伴宿禰ゴジョウ

曹操軍の組織

建安二十年、孫権の率いる攻撃に接し、合肥では、張李楽の三将が合議によって、方針を決定しています。どうやら三名には、専任だとか、上位という順位付けが無かった様な記述です。無論、これが事実ならば、(この場合は上手くいきましたが)指揮系統の混乱が生じた可能性は高いでしょう。組織として脆弱な気がします。
又、李典と程イクは、建安七年、袁譚、尚の兄弟を攻める際、黎陽において明らかな命令違反を犯し、水路を確保しています。

曹操軍の組織は良く言えば柔軟なのですが、それは明らかに命令系統に不備があるのです。
現場サイドが勝手な判断で動いた事によって負けた戦は、過去に多数(たとえば、「泣いて馬謖を斬る」の故事で知られた、街亭の戦い)ありますし、最高責任者が複数居ては、意志決定に時間がかかりすぎます。

曹操軍の組織というのは、現代の観点からすれば欠点が多い様に、私には感じられるのですが、皆さんは如何でしょうか?是非意見をお聞かせ下さい。
(F2102V/FOMA)
95 徳操
妄想全開なんですが、王忠は曹操が呂布にエン州とられてピンチの時に、帰順したんじゃないかな〜と思っています。

王忠の序列については、渡邊義浩先生の「魏公卿上尊号奏にみる漢魏革命の正当性」が詳しいです。PDFで読めるので、ぜひ。
(CA001/au)
96 朱家
王忠は、魏公推挙も皇帝即位もかなり前の方に名前があり、影響力を持つ人物だと思われます。

王忠でも劉備を潰せなかったため(負けた訳ではない)、危険を承知で曹操自ら動いた、って解釈が妥当だと思います。感覚的に名士とは思えないので、私兵を抱える任侠的な長でしょうか。その後の記述がないため、さっさと私兵を譲渡し、尊重される存在となった感じだと考えます。

注釈で、記述そのものは呉質が暴走した話ですが、曹洪と一緒になって、太ってる曹真をからかった記述があり、これは曹丕が呉質のために招集した宴会での話で、曹真はこの時、上軍大将軍という、とんでもない高官であり、信憑性はともかく、そういう記述が残るという事は、曹丕とも一門とも仲は良さそうです。人肉の話も、そんな事を笑いのタネにできるなんて、かなり仲が良いのではないでしょうか。
(W56T/au)
97 諏訪
王忠らは形式的には漢臣であり曹氏の臣下でないということで、魏臣よりも高い地位にいたのではないでしょうか(軍師や三公は別格)
日本史でたとえれば、禄高では譜代大名よりも上にいた外様大名にあたるような存在だと思います。
(F07B/FOMA)
98 バンビ
ウッ!
もしや今まで王忠の事をへぼい奴と思っていたのは自分だけだったという事ではないですか(笑)

いや〜お恥ずかしい(照)

まだまだ修行が足りんですね〜(笑)
(W54T/au)