37 赤龍
昌キの一件は、旧知の間であったからこそ、あえて私情を挟まなかった、于禁の実直な(頑固な?)性格を示すもので、決して裴松之がいうように殺害を好んでやったわけではないと思います。
裴松之って、結構人の好き嫌いが激しそうですよね(笑)気に入らない奴はとにかくけなす。
それとも、司馬遷っぽく、因果応報的なことを語りたかったのかな?
裴松之って、結構人の好き嫌いが激しそうですよね(笑)気に入らない奴はとにかくけなす。
それとも、司馬遷っぽく、因果応報的なことを語りたかったのかな?
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39 赤龍
于禁の帰国は、文帝紀に221年8月と書かれており、明確に帝位についた後ですね。
浩周と東里コンは和訳ではちょっとわかりづらいですが、原文を見ると、曹丕が王位についたときとはっきり書かれています。
まずは格下の者から送り返して、様子を見つつ交渉していたのではないでしょうか?
浩周と東里コンは和訳ではちょっとわかりづらいですが、原文を見ると、曹丕が王位についたときとはっきり書かれています。
まずは格下の者から送り返して、様子を見つつ交渉していたのではないでしょうか?
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40 朱家
于禁は官渡時、延津を守って袁紹の攻撃を受けてるんだけど、正確な時期は不明なものの、白馬攻撃が二月で、同時期だろう。四月に曹操が戻ってきて陽動してるから、于禁を攻撃してた袁紹軍は手薄になってた訳です。
袁紹は渡河を問題にしてないから、しぶとい于禁がいる延津を放棄し、西方に展開したのだと思います。
袁紹にとって、あっさりと劉備が潰れるという、おそらく、本当に目玉が飛び出た誤算があったとはいえ(笑)、延津を守った于禁は凄いと思いますね。
袁紹は渡河を問題にしてないから、しぶとい于禁がいる延津を放棄し、西方に展開したのだと思います。
袁紹にとって、あっさりと劉備が潰れるという、おそらく、本当に目玉が飛び出た誤算があったとはいえ(笑)、延津を守った于禁は凄いと思いますね。
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