28 赤龍
蔣琬は、諸葛亮によって取り立てられ、丞相府長史に任ぜられ、丞相府の留守を任された諸葛亮の腹心。さらに、自分の後継者として目をかけていた。明らかに、諸葛亮の影響下にある人物ですよ。
諸葛亮の死後、漢中に駐屯し、大将軍府を開いたのも、諸葛亮のやり方を踏襲したもの。朝廷のトップとして、諸軍を指揮するために漢中に駐屯することもごく当然のことです。
諸葛亮の死後、漢中に駐屯し、大将軍府を開いたのも、諸葛亮のやり方を踏襲したもの。朝廷のトップとして、諸軍を指揮するために漢中に駐屯することもごく当然のことです。
(PC)
30 朱家
私見ですが…孔明が実質、軍権を奪ったのは、北伐で李厳が江州に来た時に、吸収したと思います。しかし李厳が自ら差し出した可能性もあります。この時点で蜀主はすでに孔明だったと思われ、忠誠を示したのではないでしょうか?李厳は、孔明に劉禅の椅子に座ってもらい、自分が孔明の地位になる事を望んだのではないかと…孔明の行動を考えると、帝位を奪うと思っても不思議ではないでしょう。しかし王位を断られ、それまでの忠誠が無駄になり、孔明と同格の地位、もしくは後継者としての扱いを求めたと考えてます。
つまり、孔明と争う意思すらなく、孔明が軍を指揮すると言えば、それに従ったのではないかと。
陳震伝、孔明の蒋エン、董允への手紙「李厳は陳震の言うとおりだった」は漢中で書いたものではないでしょうか?上表の内容は、李厳は功労者ですから、劉禅に余計な発言をさせないためで、成都にいなかった事を示してるのように思います。
でっちあげであれば、李厳の上表「退却するふり…」が正しいとの証明は難しいと思います。この上表も孔明が作ったとするのはキツイかと。注釈の、子の李豊に諭した話も矛盾が生じるように思います。
つまり、孔明と争う意思すらなく、孔明が軍を指揮すると言えば、それに従ったのではないかと。
陳震伝、孔明の蒋エン、董允への手紙「李厳は陳震の言うとおりだった」は漢中で書いたものではないでしょうか?上表の内容は、李厳は功労者ですから、劉禅に余計な発言をさせないためで、成都にいなかった事を示してるのように思います。
でっちあげであれば、李厳の上表「退却するふり…」が正しいとの証明は難しいと思います。この上表も孔明が作ったとするのはキツイかと。注釈の、子の李豊に諭した話も矛盾が生じるように思います。
(EZ)