45 諏訪
>>44
庶子は諸侯王につく官ですから、爵位をもらう前の曹叡に庶子がつくことはありません。
また吉本は後漢の大医令でしたから、乱を起こしたのが後漢滅亡後の227年というのもありえません。『三国志』武帝紀や『後漢書』献帝紀に従って218年と考えるべきでしょう。
庶子は諸侯王につく官ですから、爵位をもらう前の曹叡に庶子がつくことはありません。
また吉本は後漢の大医令でしたから、乱を起こしたのが後漢滅亡後の227年というのもありえません。『三国志』武帝紀や『後漢書』献帝紀に従って218年と考えるべきでしょう。
(W51S/au)
46 諏訪
常林伝注の『魏略』には、吉茂が武徳侯庶子になったという記述の後に「(建安)二十二年(217)、一族の吉本らが乱を起こしたのに連座して逮捕された」と記されていることから、曹叡が武徳侯に封じられたのが吉本の乱以前のようにもみえますが、はたしてこの記述はどこまで信用できるでしょうか。
まず吉本の乱が217年のことになっていますし、また後に吉茂が武陵太守に任命されたことが記されていますが、この頃劉備または孫権領になっているはずの武陵郡の太守に任命されるのもおかしな話です。
吉茂が武徳侯庶子になったという記述も、たまたま吉本の乱の前に紛れ込んでしまったのではないかとも考えられます(こういった時系列の混乱は時々みられます)
曹操の時代に太子の子である曹叡が侯に封じられるのも考えにくいですし、曹叡が武徳侯に封じられたのは「文帝紀」の220年5月とするのが妥当なのではないかと私は思います。
まず吉本の乱が217年のことになっていますし、また後に吉茂が武陵太守に任命されたことが記されていますが、この頃劉備または孫権領になっているはずの武陵郡の太守に任命されるのもおかしな話です。
吉茂が武徳侯庶子になったという記述も、たまたま吉本の乱の前に紛れ込んでしまったのではないかとも考えられます(こういった時系列の混乱は時々みられます)
曹操の時代に太子の子である曹叡が侯に封じられるのも考えにくいですし、曹叡が武徳侯に封じられたのは「文帝紀」の220年5月とするのが妥当なのではないかと私は思います。
(W51S/au)