1 寿君

巴郡について

 巫俊さんにスレ立てをお願いしたにも関わらず、やっぱり自分で立ててしまいました。すみませんm(__)m
 さて益州巴郡は巫俊さん紹介のサイトの方で読ませていただきましたが、当地に盤拠していた異民族は、精強で漢の高祖の天下平定にも貢献したとありました。
 また「蜀は相、巴は将を輩出する(でしたっけ?)」と言われるように、王平、張嶷、句扶と言った蜀中後期の名将も輩出してます。
 この巴郡についてのお話をしたいです。
 なお初心者質問板の「劉備の蜀攻撃における疑問」ってスレッドの続きです。
 確かにこれなら、李厳が諸葛亮に巴州設立を要請したのも判る気がします。
(P901iS/FOMA)
10 寿君
 そうそう、雍州の分割と幽州の分割は地図を見た時に、
「当然の処置だな」
 って納得できたぐらいです。
 えーと雍州は既に曹操が司隷の関西と涼州の隴右を分離結合して誕生したんですよね。
 それを晋はさらに分割したって事になりますね。

 ここも諸葛亮や姜維の北伐でよく切り離されかかった土地で、赤龍さんの紹介なさってた満田氏の本なんか読みますと、隴右に蜀軍が攻め込むと魏軍も長駆して救援するんで苦しかったみたいな事書いてましたから、ここの分割も軍事的、政治的な見地から見ると納得の施策ですね。

 ここまでしたのに、西晋は内側と外側から崩壊してしまうんだから、皮肉なもんですね。

 うん?何やら話がスレタイから遠ざかっていく気が…でも興味は深々です。
(P901iS/FOMA)
11 赤龍
>>>102の張脩の件を調べていて気づいたのですが、五斗米道の創始者の可能性のある張脩、『後漢書』によると巴郡の人なんですよね。そして、おそらく拠点も巴郡であり、中平元年の反乱も巴郡を中心としたもの。
ということは、巴郡こそが五斗米道の発祥の地?であり、本来の拠点。漢中よりも五斗米道との関わりは古いことになります。巴郡に張魯や五斗米道の影響が強く及んだのも、そう考えるとむしろ当然のことのように思えます。
(PC)
12 寿君
 どうやら、巴西はロウ水あたりを境に張魯と劉璋の勢力は分かれてたんじゃないでしょうか?。
 劉備は張魯が巴中に逃れた時に黄権を迎えにやらせてますから、劉備は劉焉時代の蜀と漢中の関係から、近い将来の漢中奪回時に張魯を押し立てて…と言う考えだった可能性もありますね。
 劉焉と五斗米道の親密な関係からすると、巴もそうですが蜀にも信者が相当居た可能性がありますからね。
 ところが、孫権の荊州侵攻への対応、張魯の曹操への降伏もあり、直接的な漢中への武力行使に繋がったような気がします。
 意外にこのあたりの劉備の目論みに生じた誤差が、後々大きく響いたのではないでしょうか?。
(P901iS/FOMA)
13 寿君
 連書き失礼します。
 送信した後に気付きましたが、漢中に対する一連の侵攻作戦は、もしかしたら、張魯や土地の住民は居なくなりましたが、四川に多数いる(と思われる)信者達に対する宗教的な見地で言えば「聖地奪回」の意味合いもあったのかも知れませんね。
 曹操が漢中を占領した時に巴蜀はパニック状態に陥ったとありますから、もしかしたら信者がパニックの中心だった可能性もありえないでしょうか?。

 しまった…これは張魯の方に書くべきだったかしら(汗)
(P901iS/FOMA)