1 巫俊(ふしゅん)
徐州の歴史
後漢三国時代を中心に徐州の歴史の話題はここのスレでどうぞ。西晋の徐州史も『三国志』の内に入るでしょう。
http://www.sinomaps.com/non-cgi/usr/39/39_80_2.jpg (後漢 徐州地図)
http://www.sinomaps.com/non-cgi/usr/39/39_86_3.jpg (魏 徐州地図)
http://www.sinomaps.com/non-cgi/usr/39/39_93_9.jpg (西晋 徐州地図)
さて徐州というと具体的にどこを指すのでしょうか。赤龍さんの>>>266-72のご指摘を受けて認識を新たにすることができたのですが、後漢の徐州は大きく二つの地域に分けて理解する必要が見出せます。ひとつ目は徐州南部の泗水・淮水系のホウ城国・下ヒ国、広陵郡の地域です。ふたつ目は徐州北部のキ水系のロウ邪国、東海郡の地域になります。
現在の徐州市はホウ城国の位置にありますが、これは西晋時代に徐州州治がここホウ城国に置かれ、以後の時代の経緯はとりあえず説明しませんが、ホウ城を徐州と呼ぶことが定着して現在に至るということのようです。
未確認ですが『三国志演義』の徐州城とはここホウ城のことを指しているのではないでしょうか。またコーエーの一部ゲームではホウ城の位置を指して徐州と呼んでおり、小説などでは劉備・曹操・呂布が角逐した南部のホウ城と下ヒがクローズアップされる傾向にあったと思います。北部のロウ邪国は諸葛亮の出身地ということもあって有名ですが、そのせいでロウ邪国と下ヒの間にある東海郡が割りを喰って知名度が低いです。
赤龍さんがご教授されたように東海郡の郡治のタン県は後漢中期の徐州刺史の赴任先であり、後漢末の時点での正確な記録はありませんが、曹操の徐州侵攻の際には陶謙がタン県に拠って死守しているようです。ただやはり厳密には州治は不明ですが。続く劉備と呂布の根拠は下ヒにあったようです。そして魏では下ヒ県に徐州の州治を置いており、西晋に至ってホウ城に移ったようです。
史書以外の重要な史料としては『通典』の古徐州の項目と『芸文類聚』の徐州の項目があります。あと漢代以前においては徐州の位置は揺れ動いており、以下の通り古典文献によって徐州に範囲が異なります。
泗上を徐州と為す。魯なり。(『呂氏春秋』)
海岱及び淮は惟れ徐州なり。(『尚書』(書経)『史記』『漢書』)
済東を徐州という。(『爾雅』)
http://www.sinomaps.com/non-cgi/usr/39/39_80_2.jpg (後漢 徐州地図)
http://www.sinomaps.com/non-cgi/usr/39/39_86_3.jpg (魏 徐州地図)
http://www.sinomaps.com/non-cgi/usr/39/39_93_9.jpg (西晋 徐州地図)
さて徐州というと具体的にどこを指すのでしょうか。赤龍さんの>>>266-72のご指摘を受けて認識を新たにすることができたのですが、後漢の徐州は大きく二つの地域に分けて理解する必要が見出せます。ひとつ目は徐州南部の泗水・淮水系のホウ城国・下ヒ国、広陵郡の地域です。ふたつ目は徐州北部のキ水系のロウ邪国、東海郡の地域になります。
現在の徐州市はホウ城国の位置にありますが、これは西晋時代に徐州州治がここホウ城国に置かれ、以後の時代の経緯はとりあえず説明しませんが、ホウ城を徐州と呼ぶことが定着して現在に至るということのようです。
未確認ですが『三国志演義』の徐州城とはここホウ城のことを指しているのではないでしょうか。またコーエーの一部ゲームではホウ城の位置を指して徐州と呼んでおり、小説などでは劉備・曹操・呂布が角逐した南部のホウ城と下ヒがクローズアップされる傾向にあったと思います。北部のロウ邪国は諸葛亮の出身地ということもあって有名ですが、そのせいでロウ邪国と下ヒの間にある東海郡が割りを喰って知名度が低いです。
赤龍さんがご教授されたように東海郡の郡治のタン県は後漢中期の徐州刺史の赴任先であり、後漢末の時点での正確な記録はありませんが、曹操の徐州侵攻の際には陶謙がタン県に拠って死守しているようです。ただやはり厳密には州治は不明ですが。続く劉備と呂布の根拠は下ヒにあったようです。そして魏では下ヒ県に徐州の州治を置いており、西晋に至ってホウ城に移ったようです。
史書以外の重要な史料としては『通典』の古徐州の項目と『芸文類聚』の徐州の項目があります。あと漢代以前においては徐州の位置は揺れ動いており、以下の通り古典文献によって徐州に範囲が異なります。
泗上を徐州と為す。魯なり。(『呂氏春秋』)
海岱及び淮は惟れ徐州なり。(『尚書』(書経)『史記』『漢書』)
済東を徐州という。(『爾雅』)
(PC)
2 巫俊(ふしゅん)
なお徐とは古くは殷代の甲骨文字に出てくる東南方の地名であり、泗水流域にいた群蛮を指す言葉のようです。この泗水流域の民族集団は今日の広西壮族自治区の壮族や雲南にいるヨウ族(玉+夕缶という字)と近縁のタイ語族では無いかとという説が有力で、つまりもともとは漢族ではありません。徐州という地名が史書に最初に登場するのは戦国時代中期の『竹書紀年』であり、その場所は厳密には不明なところもありますが、楚国の領有していた泗水流域のどこかを指していたとされます。
それ以前の春秋時代のこの地域は徐国やタン国などの十数個の小国に分かれていて、どこか漢代の倭国の百余国に似た未開の後進地域という印象です。ここは鉱物・動植物資源の宝庫であり、殷西周時代には中原諸国の主たる進出先となり奴隷や金属の供給源として搾取を受けていました。そのために中国化が進み、春秋時代には隣国の魯国と宋国、越国、楚国の列強によって大部分が併合されるところとなりましたが、春秋時代の徐国の青銅器に「徐王義楚」と書くものがあり、列強の脅威に対して徐系の民族集団も義楚という名前の王を戴いて対抗していたことも明らかになっています。
その後の徐州は戦国の斉・楚の二大強国によって分割され、最終的に秦の始皇帝の統一によって徐州のほぼすべての民は戸籍の民(=中国人)になったようです。かの徐福の出身を徐州の九夷という蛮族に求めるという考え方もあり、近隣の朝鮮及び日本に渡ってきた弥生人の一部はこの徐州人だろうと想像されていますから、私たち日本人にとっても近しい地域なんですよ。日中戦争の折には徐州大戦という焦土作戦の実行されていますが、、、
それ以前の春秋時代のこの地域は徐国やタン国などの十数個の小国に分かれていて、どこか漢代の倭国の百余国に似た未開の後進地域という印象です。ここは鉱物・動植物資源の宝庫であり、殷西周時代には中原諸国の主たる進出先となり奴隷や金属の供給源として搾取を受けていました。そのために中国化が進み、春秋時代には隣国の魯国と宋国、越国、楚国の列強によって大部分が併合されるところとなりましたが、春秋時代の徐国の青銅器に「徐王義楚」と書くものがあり、列強の脅威に対して徐系の民族集団も義楚という名前の王を戴いて対抗していたことも明らかになっています。
その後の徐州は戦国の斉・楚の二大強国によって分割され、最終的に秦の始皇帝の統一によって徐州のほぼすべての民は戸籍の民(=中国人)になったようです。かの徐福の出身を徐州の九夷という蛮族に求めるという考え方もあり、近隣の朝鮮及び日本に渡ってきた弥生人の一部はこの徐州人だろうと想像されていますから、私たち日本人にとっても近しい地域なんですよ。日中戦争の折には徐州大戦という焦土作戦の実行されていますが、、、
(PC)
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