1 萌黄

関羽について

はじめまして!萌黄と申します。
ところで私は関羽が大好きです。そんな関羽について!
〜関羽は、曹操サイドについた事が一度あります。その後五関突破(三国演義)で劉備のもとに戻ったのですが、関羽はこのまま曹操のもとで戦った方がより長生き出来たのでしょうか。また、どうゆう生き方をしていたでしょうか?
(P903i/FOMA)
12 諏訪
関羽の一族が殺されたことについては、「関羽伝」注の『蜀記』に「ホウ悳の子のホウ会は鍾会・トウ艾に従って蜀を討伐した。蜀が敗北すると、彼はことごとく関氏の血統を滅ぼした」とあります。

鍾会は征蜀に際し、略奪を禁じ、諸葛亮や蒋エンの墓を祭り、姜維ら降将を厚遇しています。
このような鍾会が、部下のホウ会が関羽の一族を殺すのを許すとは思えません。
『蜀記』の記事が事実だとすると、関羽の一族が殺されたのは、鍾会の死後の混乱のときでしょう。
ここで想像ですが、関羽の一族は乱兵によって殺されたのが、関羽にうらみをもつとされるホウ会のしわざということにされてしまったとは考えられないでしょうか。
「後主伝」に「鍾会が死んだのち、蜀中の軍兵は略奪を行ない、死者が出て混乱し、数日してやっと平穏にもどった」とあり、劉セン・張翼・蒋斌・衛継らが乱兵に殺されています。

あくまでも想像ですが、『蜀記』はあまり信用できない史書なので、このようなことを考えたりしてしまいます。
(W51S/au)
13 歴史学科の学生より
最近の研究では関羽は元々塩の密売商人であった事がわかったそうです。


だから関羽は商いの神なんですよ。

それと、三国志時代の事をあれこれ言っても不毛な言い合いになるだけですよ。

何故なら、その時代に書かれた物が無いからです。歴史学者はその時代にあった事をあれこれ言う前に、それを示す物的証拠を出せ、と言ってきます

学会で認められているのは、陳寿の『三国志演義』だけなんですよ。それ以外のは時期が離れすぎていたりするため物的証拠とは認められていません。無論、正史と言われている『後漢書』などもです。


しかも、現在では三国志が好きなので調べたいからという理由で、大学の歴史学科に入りましたという生徒が多くいます。しかし、担当の教授に「もう三国志時代は調べ尽くされた為、調べることは出来ない」と言われ、絶望して行く人がとても多いのです。


あと、引用して文章などを言葉を使うのは盗作の疑いをかけられるかも知れないので注意して使ってください


あともう一つ言うならば、魏の曹操の墓と見られる場所が発掘されたみたいですよ

長く書いてしまって、どうもすみませんでした。
(T003/au)
14 おちゃる
久々にワロタ笑

曹操の墓が出ましたよって、そこらの無双オタでも知ってるわ。

つたない知識で噛みつくとケガしますよ学生サン。
(TS3X/au)
15 しす
>>13
関羽が塩の密売に関わっていたという話は、彼が塩の産地である司州河東郡解県の出身であること、また出奔した身であることから推測された民間伝承レベルの話だと思いますが。
正史が唯一信頼できると言いながら、正史に記述がない関羽の素性の話はどこから出てきた話でしょうか?
関羽が神格化された理由も諸説あって「塩の密売」の件にしても、その一つにすぎない筈です。

それから陳壽が記したのは『三国志』。
『三国志演義』ではありませんよ。
(912T/SB)