1 独眼龍李克用

諸葛亮孔明

たまには三国志の新しいスレ立てなきゃなと思っていたんですが、良いのが思い浮かばなくてありきたりな議題です。
諸葛亮について議論していきましょう。
(P900i/FOMA)
97 伏仁傑
初めまして。武則天の臣テキジンケツです。テキは漢字が出ないので便宜上「伏」になってます。
諸葛氏の人材登用を語る上で徐庶は良い物差しになります。彼がギへ去った後に中郎将に任命されたと聞き「徐庶ほどの人物がそんな位とは…ギは人材が多いのか」と嘆息したエピソードがあります。ギは人材が多いのもあったのでしょうが、後の九品官人法に準ずるような勲功による登用制度があり、仮に徐庶が演義にあるほどの才能があったとしてもそう簡単に元勲達を押し退けて登用される環境では無かったのでは無いかと推測します。当時ギは正統王朝たる後漢の天子を擁する「公国」であり一方のショクは地方の軍閥でしか無い背景を忘れてはなりません。諸葛氏の人材登用のブレは俗に言う荊州派と益州派の諸将の権力闘争に影響されていると推論します。街亭での馬ショク任用は両派の影響を余り受けない新世代「ショク」の武将を育てようとした焦りから生まれた失敗なのです。孟達をあのような場所に任命せざるを得なかったのはショクがギに比較して「近代化」に立ち遅れていた証明と言えるでしょう。地方と中央の文明差は現代の我々が想像するより遥かにあったと思います。
(W11K/au)
98 伏仁傑
長文スイマセン。
諸葛亮が偉大な文官であった事は否定しませんが、当時ショクの荊益州の寄り合い所帯的な事情からおのずとやれる事に限界があったと思われます。法正との仲を正史で特筆されているのも、荊派である諸葛氏が益派の頭目株である法氏にいかに気を遣っていたか…とも読む事が可能です。
特に荊州失陥により荊派が地盤を失った後は益派に対する発言力はかなり低下したと思われますしその中で諸葛亮が音頭を取って国を動かして行くにはギとは比較にならぬ政治的な苦労があったでしょう。いずれにしても今日の感覚では一概に評価するのは実に難しい事だと思われます。
(W11K/au)
99 天草
伏仁傑殿>初めまして!これからもよろしくお願いします!
お話し読ませていただきましたが、なかなかの知識をお持ちのよう。これからも意見してください。

さて、法正が益州派の頭目株…というのは私は少し違う気がしますが、他の書き込みは妙に納得しました。

特に馬謖や孟達を派閥に属さない新世代と考える意見は斬新で面白いですよね。
諸葛亮は彼らの力を見誤ったのではなく、仕方がなかったとするのは、そうなのかもしれません。

さて諸葛亮スレは相変わらずの人気で、100に届きそうですね。>>100の方は新スレをお願いします!
(PC)
100 大伴
では私が埋めて。

伏仁傑さんはじめまして。以後宜しくお願いしますね。
(F2102V/FOMA)