オリつく オーナー会議

過去ログ1490 2006/5/23 14:34

▼ララ
■「甲子園は清原のためにあるのか!?」
植草貞夫(ABC朝日放送アナウンサー)

  これは、プロ野球の名言ではなく高校野球のものだが、高校野球放送史上に残る名言なので取り上げてみた。

85年、夏の高校野球・第67回大会の決勝、宇部商(山口)-PL学園(大阪)戦での名言である。

6回裏、バックスクリーン左へ飛び込む豪快なホームランを清原は放つ。
この試合、4回に続き清原2本目のホームランである。宇部商がいくら突き放しても清原のホームランであっさり追いついてしまうのだ。
以下は、この時のあまりにも有名な植草アナの実況である。

「さあ、移ったセンター・藤井のところに飛んだ〜!」
「藤井が見上げているだけだ!」
「ホームランか?」
「ホームランだ!」
「恐ろしい!」
「両手を上げた!」
「甲子園は清原のためにあるのか!?」

清原の甲子園通算13本塁打、29打点は未踏の記録である。
桑田とともに5期連続甲子園出場、そのうち4度決勝に進出し、2度優勝した。
桑田の甲子園通算20勝も戦後最多。
天才肌で豪快な清原に対して努力型で緻密な桑田と、対照的な2人が競い合い黄金時代を築いたのである。
5/23 14:34

▼ララ
■「頑張れば、3分で終わるかもしれないじゃないですか」
大石大二郎(近鉄バファローズ)

  勝負の世界は時として、敵でも己でもなく、ルールそのものが勝利の前に大きく立ちはだかることがある。
昭和63年10月19日、川崎球場で行われたロッテ-近鉄最終戦はまさにそんな一戦だった。

ダブルヘッダーの第1試合をモノにした近鉄は、これでマジック「1」となり、次の第2試合となる最終戦で勝てば近鉄の優勝となる。
しかし、引き分け以下なら、すでに全日程終了している西武が優勝という、とんでもない情況である。

さて、試合は勝ち越せば追いつく好ゲームとなり9回表を終わって4-4の同点、近鉄はもはや延長戦に望みを託すしかなくなった。
ところが9回裏、2塁ランナー古川の牽制球タッチアウトの判定に対してロッテの有藤監督が執拗な抗議を続ける。

パ・リーグの規定では、試合開始後4時間を超えて勝負がつかない場合、延長戦の新しいイニングには入らず、時間切れ引き分けとなる。
試合時間はすでに3時間半を回ろうとしている。引き分けでは優勝の目がない近鉄ナインは、抗議が長引くにつれて苛立ちはじめる。
観戦していた私も「有藤、もうええやん、試合再開してやれよ」と腹が立ったのを覚えている。

後に、この抗議を批難された有藤は「当然の抗議」と反論したが、その場の空気を読むのも監督の才能である。
すでに最下位が決定しているロッテにとってこの抗議にいくらの価値があるのだろうか。
あまりにも無意味な抗議であった。

結局、抗議による中断は9分間におよび、10回表を迎えたときもはや残り時間は15分を切っていた。
10回表、先頭ブライアントが出塁し望みを繋ぐが、一死からバッター羽田の打球はセカンドゴロ併殺となった。
規定の4時間まで余すところ、わずか3分。
この時点で、近鉄の優勝は絶望的となった・・・

しかし、茫然と立ちつくすナインに選手会長の大石が、声をかけた。
まだ、終わったわけではない。
もしかしたら11回までやれるかもしれないというのだ。もちろん、奇跡は起きず、この回で時間切れ引き分けとなった。
しかし、勝利の可能性が万に一つでも残されているかぎり、その可能性にかけてみようという、この大石の言葉は近鉄ナインを感動させたに違いない。
5/23 14:34

▼ララ
■「指令ではない。強い要望なんだ」
  金子 鋭(プロ野球コミッショナー)

  あの江川事件を御存知だろうか。簡単にいきさつから説明する。
昭和53年、なにがなんでも「巨人」に入団したい江川は、前年のドラフトで自分を引き当てたクラウン(西武)との交渉をかたくなに拒否していた。

当時の野球協約には「その球団がドラフト交渉権を得た者と次の年のドラフト前々日までに選手契約を結べなかった場合、そのドラフトの交渉権は喪失する」と規定していた。

巨人、江川サイドは「前々日」という表記に注目、「前日」ならどこの球団にも属さないので、自由に契約できるものと考え、巨人はドラフト「前日」に江川 卓と電撃的に契約を結んだ。
いわゆる「空白の1日」である。
機構側は当然、即座に却下。
しかし、巨人は抗議のため、翌日のドラフトをボイコット。
巨人不参加で始まったドラフトで江川の交渉権を得たのは阪神だった。
巨人は「12球団全員出席のもとでないドラフトは無効」とさらに難癖をつけ、リーグ脱退も辞さないかまえ。もう無茶苦茶である。

日本中が騒然とする中、昭和54年1月31日、金子コミッショナーより、「江川は本日をもって阪神に入団し、そして即日、小林 繁投手(巨人)と交換トレードする」という裁定が下った。

小林の人権もクソもあったものではない。
プロで一球も投げていない者と、巨人のエース級である自分とがトレードされるのだ。
そして、もちろんこれは野球協約の「新人はその年の6月1日まで、トレードしてはいけない」に抵触する。
協約の番人であるコミッショナーが自ら協約を破るのである。
「これは指令なのか」12球団関係者が追及すると、金子は思いっきり机をぶったたいて「指令ではない。強い要望なんだ」とどなりつけた。
悪名高き「強い要望」発言である。

なぜ金子はこれほどまでして江川を巨人に入団させたのか。
それは金子が超熱烈巨人ファンだったからである。
5/23 14:33

▼ララ
今日は暇やわ〜。
と言うことで、プロ野球名言集をネットから拾ってみました。ララ厳選です。暇つぶしにどうぞ。


■「この1本をファンの皆様の夢の中で打たせて頂きますればこれに優る喜びはございません。」
大杉勝男(ヤクルトスワローズ)

  昭和58年6月3日、神宮球場でヤクルト-中日9回戦が行われた。
4回無死、4番・大杉勝男(ヤクルト)は鈴木孝政投手から中前安打した。
その時、一塁走者になった大杉の眼がうるんでいるように見えた。
大杉は東映に入団した昭和40年から49年の日本ハム時代まで、つまりパ・リーグで安打1171本を記録した。
そして昭和50年にヤクルトに移ってからこの日の安打で、今度はセ・リーグで安打1000本目をやってのけた。(最終的にはヤクルトで1057本)
プロ野球が創設されて60年、両リーグでともに安打1000本台ずつというのは、この大杉が第一号である。

ところで大杉にはもうひとつの、大きな夢が秘められていた。
本塁打でのパ・リーグ200本台、セ・リーグ200本台第一号である。
大杉はパ・リーグにいた10年間で本塁打287本を打った。
だが人間の運命なんて説明がつかないほど不思議なものだ。
現役19年目の最後の年、つまり昭和58年に大杉の本塁打は21本である。
ヤクルトに移ってこれで199本目、あと1本の本塁打で両リーグ200本台の新記録が実現するところまできていたのだが大杉の最後の打席は内野ゴロ併殺打に終わってしまう。

その後の引退セレモニーでの大杉の言葉が美しかった。

「最後に我まま、気ままなお願いですが、あと1本と迫っておりました、両リーグ200号本塁打。この1本をファンの皆様の夢の中で打たせて頂きますれば、これに優る喜びはございません・・・」

その8年後、平成4年4月30日、その人柄からみんなに愛された大杉も肝臓ガンのため47歳で息を引きとった。
その夜のフジテレビのプロ野球ニュースで、「大杉追悼特集」明けにキャスターの中井美穂と、ゲスト解説者の大矢明彦が号泣していたのが印象的だった。
5/23 14:33

▼ララ
俺は海外小説て、どうも登場人物名がなかなか覚えられなくてねえ。でもダビンチは面白そう。

一方広島は今週はオリ→楽で貯金W。
ロッテにセ潰ししてもらってるあいだに借金返済やわ。
5/23 9:44

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