失礼します。
私も司馬散人さんの
おっしゃるように、
陳寿の書いた三国志は、晋朝の許容範囲だったのだと思います。
陳寿はおそらく、
・歴史上の事実。
・晋朝の建て前。
・自らの主観。
の以上の三点から、
正史三国志を書き上げた。それはつまり当時の、歴史の社会化と呼べる
作業であったと思います。話しはズレますが、
それに対し、後代に
描かれた三国志演義は、劉備玄徳を主人公にしながらも、陳寿が描き切れなかった、人間の実像に迫って、三国志を
描き直したものだと、
考えられます。つまり、陳寿が行った作業は、
社会化された歴史の記録。羅漢中が行った作業は、人間化した記録の
ドラマ化と言えるのでは無いでしょうか?

もちろん記録をドラマ化するに当たっては、
正史では取り扱われなかった地元に残る伝聞などを詳細に精査し、信憑性の高いものを、物語として取り入れる等の作業が行われたと思います。
それは、
まったくの虚構では無く、「もしかしたらあったかも知れない」または、「実際はこうだった」等、人間の歴史として、
違和感の無いものに
仕上げられています。
むしろ正史にある
不自然な箇所を考えれば、こちら(演義)の方が
真実なんじゃないかと
思えるほどです。
陳寿の意図が、
一体どこにあったのか?今となっては知るよしもありませんが、三国志に於ける伝聞や異説が多く現存することなどから、陳寿は敢えて「正史」を
三国時代の結論とせず、種々の異説を許容したのかも知れません。
自らから描いた正史すら、この時代(三国時代)が後代に伝わるための、
参考書の一つになるように…
(PENCK/au)