95 巫俊(ふしゅん)
私が「張昭」のスレッドにて自説に固執せし者という汚名をあえて受けて固守した物、それは「偶発的な可能性」である「ひとつの推論」に過ぎない高岱裏社会のボス説を不当な圧力から堅守する為です。従来より手厚く保護されてきた「常識」はそれ自体に著しい偏差(かたより)を有しています。実際の事実との間の距離と言い換えてみれば分かりやすいですね。以前の考え方に沿ったものであっても事実が偏向することを免れないのです。ここで特権を与えては歴史を見るレンズが曇(くも)ってしまうのですよ。今一度是非ご留意して頂きたいところです。

仮に史料の無き故に我々には知りえないと思われる真実の座標を50としますと、
Aの「常識」は1〜99までのすべての座標のうちのどこに位置しているのか、神ならぬ我々の目からは確認することができないことに気付きます。史料批判を経ているので座標50に近いと論ずる人は思っていますが、どこに位置しているか分からないのがAのシステムです。

それに対しまして、Cのシステムは座標1〜99の可能性をひとつひとつ挙げていくことで、もっと多元的で新しい見解を例示していくことが可能です。

Cは可能性を列挙しているに過ぎないという譴責を受けるならば、Bの「客観を是として常識を排し、客観だけを訂正する手段にする」システムに還ればいいのです。正確な座標は座標XからYの間にあると我々に示してくれるものがBのシステムです。BとCを交互に繰り替えせば、究極的には座標軸をすべての数字で埋めることができるはずです。

事ここに至っては、世間の常識に左右されて正確な座標の位置も覚束(おぼつか)ないAにどれほどの価値が残っているというのですか?せいぜい事実の背景を潤色する者に過ぎないのですよ。Aは背景を潤色し事実を「まだら模様」に塗りたくることで、何となくそれらしいものに権威付けを計った産物に過ぎないのです。実に危険なものでありますのに、その事態に気付いているのでしょうか?気付いておられたのであれば、早くAから特権を剥ぎ取るべきです。
(PC)