48 ストラップ
>>8
これを証明する記述が、「鄭孔荀列伝第六十」にありました。
孔融について書かれた箇所の建安元年に関する記述。
「流矢は雨のごとく集まり、弋矛は内に接するも、融は几に隠りて書を読み、談笑すること自若たり(流矢雨集、弋矛内接、融隠几読書、談笑自若)」
これを証明する記述が、「鄭孔荀列伝第六十」にありました。
孔融について書かれた箇所の建安元年に関する記述。
「流矢は雨のごとく集まり、弋矛は内に接するも、融は几に隠りて書を読み、談笑すること自若たり(流矢雨集、弋矛内接、融隠几読書、談笑自若)」
(F2102V/FOMA)
49 岳飛
1度だけ他のスレに書き込んだ事ありますが、とりあえずはじめまして、岳飛と申します。浅学ながら書き込ませていただきます。
ホウ統についてですが、軍略&戦術についてはほぼ間違いなく諸葛亮より上であったろうと思います。
諸葛亮が得意としていたのは恐らく政治、国家戦略についてであり、現に呉に夷陵で大敗した時に諸葛亮は「法正が生きてさえいれば」と嘆いたといいます。夷陵での軍師は馬良だったように記憶していますので、劉備は戦術については法正>馬良、諸葛亮という見方をしていたのではないかと。
諸葛亮の書いたという『兵法二十四編』(違ったら申し訳ありません)も絵で描いたような陣形が多い、すなわち実戦での有用性に欠けるのでは、という話も聞きましたし。
一方ホウ統が劉備に上中下の三策を献策した時劉備が中策を選択したのは、中策で十分に蜀は取れるというホウ統に対する信頼があったのではないか、などと考えています。
間違い、偏見が多々ありますがお許し下さい。
長文失礼致しました。
ホウ統についてですが、軍略&戦術についてはほぼ間違いなく諸葛亮より上であったろうと思います。
諸葛亮が得意としていたのは恐らく政治、国家戦略についてであり、現に呉に夷陵で大敗した時に諸葛亮は「法正が生きてさえいれば」と嘆いたといいます。夷陵での軍師は馬良だったように記憶していますので、劉備は戦術については法正>馬良、諸葛亮という見方をしていたのではないかと。
諸葛亮の書いたという『兵法二十四編』(違ったら申し訳ありません)も絵で描いたような陣形が多い、すなわち実戦での有用性に欠けるのでは、という話も聞きましたし。
一方ホウ統が劉備に上中下の三策を献策した時劉備が中策を選択したのは、中策で十分に蜀は取れるというホウ統に対する信頼があったのではないか、などと考えています。
間違い、偏見が多々ありますがお許し下さい。
長文失礼致しました。
(W31T/au)