1 エミ

夏候惇

実は勉強家で陣中でも常に講師を招いていた…というのを最近知りました。彼が十代の時、恩師を侮辱した男を殺して地元に居られなくなり、曹繰の下に逃げ来たというのは、正史ではどのように書かれているのですか?
(D503iS)
65 天草
張魯伝の注だったのか…(^_^;)
どこかで見覚えがあったのですが、モヤッとがスッキリしました(笑)

蒼天のこの場面、かなり笑えますよね?
私は名場面の一つだと思ってます♪
(W31SA/au)
66
>>62
やはり迷惑かけてしまいましたね↓失礼いたしました(≧д≦)
(EZ)
67 ストラップ
伏波将軍とは、一体どういう仕事の将軍なのですか?光武帝の時代、馬援も任命されている様ですが。
(PC)
68 元歎
ただの雑号将軍じゃないでしょうか? ただ、馬援が任命されたことがあるため、一定の権威があったとか…。魏では夏侯惇死後も、夏侯惇のことを大将軍になったにも関わらず伏波将軍と呼んでますからね…。

コピペですが、馬援の略歴です。
馬援(前14〜49)
  字は文淵。諡は忠成侯。扶風郡茂陵の人。十二歳のとき孤児となる。はじめ郡の督郵となった。罪囚を勝手に処分したため、北地に逃げて牧畜を営んだ。王莽の末年、召されて新成大尹に任ぜられた。王莽が死ぬと、隴西に難を避けていたが、隗囂に見出されて、綏徳将軍に任ぜられて仕えた。蜀の公孫述を「井の中の蛙」と喝破し、隗囂に光武帝に帰順するよう勧めた。隗囂はいちど光武帝に帰順しながら、再び叛いた。馬援は光武帝に助言して、隗囂は攻め滅ぼされた。太中大夫となり、次いで隴西太守に任ぜられた。羌族を討って、武威太守に遷った。虎賁中郎将に上り、五銖銭の復活を上奏して、施行された。伏波将軍に任ぜられ、交趾(ベトナム)の徴側・徴弐姉妹の叛乱を平定した。このため新息侯に封ぜられた。六十歳を過ぎて、武陵五渓の叛乱を平定するための従軍を志願したため、光武帝に「矍鑠たるかな、この翁」と言われた。しかし、この作戦の陣中で病没した。馬援に恨みを持っていた梁松が報告を改竄して罪に陥れたため、死後爵位を剥奪された。のち、冤は晴らされ葬られた。『銅馬相法』。
(PC)
69 ストラップ
今月号の文藝春秋で、陳登も伏波将軍になっていますね☆
(F2102V/FOMA)