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魏に秦州はあったのか?

初めまして、初投稿です。
晋書には曹丕が即位すると隴右を割いて秦州を立て、しばらくして廃したとあります。
けれども三国志に秦州は一度も出てこない。本当にあったのでしょうか?
皆さんの意見を聞かせてください。
(CA001/au)
9 umi
朱家さん初めまして。
詳しいご指摘ありがとうございます。
調べてみたら曹丕即位時に蘇則が護羌校尉をつとめていますが、なにかと兼任していた訳でもなさそうで、地理志の秦州の文は怪しいようです。
やはり実在しないんですかねぇ。
ただ213年に曹操が函谷関以西を雍州に改編しているので、雍州志の記述は雍州から涼、秦州を分置したということだと思います。
(CA001/au)
10 umi
連投すみません。
じっくり地理志の秦州の部分を訳してみたら、
禹貢によれば(秦州の地域は)もとは雍州の領域であり、(雍州は)魏の始めに隴右を(涼州から?)分割して置かれ、刺史は護羌校尉を兼任した。だが魏の中頃に校尉との兼任は廃された。

こう読んでみると魏の頃に秦州の地方がどうであっかについて述べていて魏に秦州があったとは一言も言ってませんね。
今後は仮説を書くときはもっと煮詰めてからにします。いや〜恥ずかしい
(CA001/au)
11 朱家
雍州志にも秦州がありますし、「始」は、おそらく「魏が最初に」(それまでは無かった)という意味ですので、ここは、秦州設置でいいと思います。

単純に、雍州志「晋初、長安を雍州の州都とした」とあり、それまで長安は州都ではなかった訳で、どないな状況やねん(笑)、もちろん、州都などは詳細な記述が少ないため、先入観であるものの「長安は秦州の州都だった」ってほうが、納得できるんですよね。

涼州刺史と護羌校尉の兼務は『三国志』に見えますが、雍州刺史との兼務は、仰るように記述がないです。
個々の詳細は省くとして、張既の後任的に、郭淮が領雍州刺史となりますが、この時、護羌校尉の蘇則は中央に召されてると思います。異民族が闊歩する場所ですから、郭淮には、それなりの将軍号があるはずで、史書だと、街亭での功績で、建威将軍となりますが、その間、討伐もしてるし、行政権しか持ってないのは疑問が残る。それこそ、領護羌校尉がくっ付いてた可能性はあると思います。その後、郭淮が出世(都督かな?)する事で、兼務職が事実上、廃されたって感じかなと考えてます。
(W56T/au)
12 umi
長安は単純に三輔が荒廃したままだからと考えたんですが、九州制復活で京兆府のみ雍州に帰属したのは長安が復興したからかもしれませんね。
あと張既を雍州刺史のまま郭淮に刺史を代行させたのは反乱が鎮圧後に張既を秦州刺史にする予定だったのでしょうか。
結局羌族の反乱まで起きて指揮権統一のために雍州に合併され、晴れて郭淮は雍州刺史になったという流れかなと思います。
(CA001/au)