1 大伴

貴方にとっての三国志のお尻は?

歴史とは、切れ目無く流れていますから、区切りをつけるのは大変難しいものです。
私は先日、
「三国志を物語化した場合、自分ならどこで終わるか」
という議題で思考していました。

私の中では「三国になったら」という結論に達しました。私の中では三国志物語とは、「三国のお話」では無く、「三国になる過程の話」の様です(もっとも、呉に関しては、孫権が魏の呉王となった頃を始めと考えて)。

魏→220
蜀→221
呉→222(実際は229)

このあたりの年でしょうか。

この頃になると、関羽、曹操、夏侯惇、張飛etc……と、メインキャストが次々と舞台裏に下がり始めます。馬超、張遼、曹仁もしばらく後には……三国志物語は「滅ぶ人」をメインテーマとすべき物語ですが、建国で終わりでも良いかなと思います。

終わり方には、

孔明の死
蜀の滅亡
晋の建国
呉の降伏
東晋の開き(三国志平話はこれ)
と、色々あると思います。皆さんの考える三国志はどこまでですか?
(F2102V/FOMA)
2 天草
最もポピュラーなのは、やっぱり孔明の死なのかな?演義(日本においての代表的な)が、それから後はついでみたいなものですからね。

ちなみに今の私は、やっぱり晋の建国までかな?
(PC)
3 くわぁまん
あちしとしては、三国志は三部構成と思ってゃす。

一部=曹操没まで

二部=孔明没まで

三部=呉が滅び、晋の統一まで…。こんな処じゃない?
(SH900i/FOMA)
4 黄漢升
自分は、劉備が死ぬまでですね。演義の主人公ともいえる、関羽、張飛、劉備の義兄弟が全員いなくなりますし。
(N900i/FOMA)
5 しす
誰を…と言うかどこの國を主人公にするかでも変わってはきますが、まぁ蜀なら一番区切りやすい二はやはり孔明の死かもしれませんねぇ。
どうも孔明の死後は姜維の独り舞台みたくなっちゃってるし。
個人的には、他に例を見ないのですが、司馬懿の最後を締めくくりにしたい気はします。
(PC)
6 天草
しす殿>それも一理ありますね。

呉だけを見たら、孫権の死かな?それ以降は…。いや、孫権の生前も…(汗)
(PC)
7 きいち
無茶を言うなら、三国志は南北朝の始まり。なので、お尻は・・・隋の建国!?
(PC)
8
私は三国すべて滅んで終わり…呉がなくなって完了ですかね。
(W11K/au)
9 独眼龍李克用
私は、歴史の区切りとしては黄巾〜隋が、いいと思いますが、物語として三国志を見た場合は別ですね。
やはり、諸葛亮が死んだら面白くなくなるから、その辺りが限度かな〜、と思います。
(P900i/FOMA)
10 たかひろ
未だに三国時代……

共産党

反対派勢力

ホーリンコー

……ごめんなさいm(__)m
(F2102V/FOMA)
11 大伴
随かぁ。
随分とスパンとるなぁ。

登場人物は何度も代替わりをさせられますね。
(F2102V/FOMA)
12
304年、西晋の侍中ケイ紹の死ですね
(F900i/FOMA)
13 大伴
そういえばNHKの人形劇は、「死せる諸葛、生ける仲達を走らす」で終わりませんでしたっけ?違ったかな?
(F2102V/FOMA)
14 赤龍
柴田錬三郎さんは、『三国志 英雄ここにあり』(だったかな?)の後、第二部的な作品として、劉備死後から蜀滅亡まで、孔明・姜維を主人公とした『英雄生きるべきか死すべきか』を執筆しています。私も物語としてこの区切りが気に入ってます。
(J-SA05)
15 天草
どこかで既出のような気もするけど…(汗)

三国志演義の最後はどこで終わるんでしたっけ?
吉川・横光作品でも構いません。
(PC)
16
横山版は蜀の滅亡までだったと思います。
(N900i/FOMA)
17 大伴
蜀が正当という見方の作品は、蜀の滅亡までとなるのでしょうね。

さて皆さん。ではあなたにとっての三国志の頭はどこ?
(F2102V/FOMA)
18 天草
私はやっぱり黄布の乱からかな?
大多数がそうじゃないんですか?
(PC)
19 たけがみ
私は166年第一次党錮からですね。
(N900i/FOMA)
20 大伴
そうか。184年かぁ。それがありましたね。

ちなみに平和は光武帝の時代から始まりますが、まぁそれはプロローグとして、本編は長角が成功するまでを長々と描きます。

私は189年だと思ってました……遅すぎましたね(汗)
(F2102V/FOMA)
21 大伴
>>19
その位の年は、人々の少年時代が描けますね。その翌年は霊帝が帝位につきまししね。
>>霊帝崩御の年です
(F2102V/FOMA)
22 たけがみ
訂正
誤;166年第一次党錮
正;167年第一次党錮
逮捕令は166ですが禁固は翌年の167でしたね。
(N900i/FOMA)
23 天草
党錮の禁って、名士達の弾圧…みたいな感じでしたっけ?
詳しい方、どんな事件だったのか、簡単に説明してもらいませんか?

できれば、それが三国志の始まりとも考えられる繋がりもお願いします!
(PC)
24 李克用
中国史博物館の陳蕃で、微妙に党錮の禁が含まれています。詳しく説明すると・・・今、学校なので説明は別の誰かに託します(;^_^A
(P900i/FOMA)
25 大伴
党人というのは、己の正義を振りかざした、知識階級の人々を指した様です。押し付けがましい徳行を唱える頭でっかちの人が、時の政治を批判したのですね。士大夫達が、群れを為す事によって、気持ちが大きくなったのでしょう。グループを形勢すると、途端に人は強気になるものです。彼等の発言は民衆のウケを狙って過激でした。
特に党人達が非難したのは、宦官でした。何故ならば、宦官が政治を取り仕切るという事は、彼等の仕官の為の枠が狭まる事だったからです。


これを禁固したのが党錮の禁です。この事件は以後に続く思想弾圧の本格的な始まりですから、三国志物語の始まりとして相応しいと考える人がいても不思議は無いと思いますよ。
(F2102V/FOMA)
26 大伴
恐らく曹操や、孔明の友人の催州平は青年時代、この党人の子弟達とは不仲だったと思います。
関羽が士大夫を嫌ったというのも、彼等が善人面で道徳を唱えたからでは無いでしょうか?
(F2102V/FOMA)
27 天草
党錮の禁はもっと知りたいことがあるんですけど・・・スレ違いなんで、またふさわしいスレを探して、上げておきます。
(PC)
28 赤龍
「清流派名士対濁流の宦官」なんて表現すると、党人はいかにも正義の味方のように聞こえますが、大伴さんの言われるように実質名士・外威・宦官の権力闘争という一面もありました。史料を残す(記す)のは名士層の人ですから、彼等が美化された記録になりますし。
後漢末から三国の歴史を考える上で避けて通れない重要な問題ですね。
(J-SA05)
29 赤龍
失礼、上の天草さんの読む前に書いてました。色々調べながら書いてたら時間かかって…。すいません。
(J-SA05)
30 天草
いやいや赤竜さん、気にしないで下さい。

スレ違いの質問をしたのは私ですから(汗)
(PC)
31 大伴
三国時代と言いますが、皇帝が三人いたのは僅かに三十五年間。
年号が三つあった年号でも四十二年間。
それから晋の統一まで数えても、222〜280で五十九年間。
魏の建国から晋まででも六十一年間。

短い時代だったのですね。
(F2102V/FOMA)
32 ストラップ
最近勘違いしていた事に気付いたのですが、「後漢」というのは「漢」だったのですね。お恥ずかしい。

もっと沢山勉強せねばならぬなぁと、反省する次第です。
(F2102V/FOMA)
33 ストラップ
皆さんは、どの時点からを三国時代と考えてありますか?

年号三つ書くのは面倒なので西暦で書きますが‥‥‥

220年
221年
222年
229年

の四つに絞られるかな。尤も221年説を採るのは蜀贔屓の人だけだろうけど。

僕は実質的な三国になった222年かなぁ。
(PC)
34 ストラップ
>>>400-19
三国志は、>>>400-16に書きました様に、三国時代ヘの過程に多くの文字を費やします。ですから三国志の時代は、後漢末の三国鼎立までの準備期間から、晋の統一(呉の滅亡)までの事です。
三国時代は(どこからどこまでという定義は諸説ありますが)、三国志の時代の一部なのですよ。
(F2102V/FOMA)
35 子竜
面白い内容のスレなのでアゲます。

私は三国志の終わりは蜀の滅亡した264年と考えます。別に蜀びいきだからというわけではありません。まぁ、簡単な理由で「蜀漢が亡んだからもう二国じゃないか」というのが理由なんですけどね。
三国時代の始まりについては、やはり、孫権が帝位についた229年と考えます。ここに来てようやく名実共に国が三つに分かれたわけですからね。
(W31SA/au)
36 巫俊(ふしゅん)
>35

266年10月に倭女王が晋に遣使してるんで、蜀が滅んだことで名実ともに晋と倭が呉を牽制する三国時代になったのかもしれないですね。
な〜んて書くと、突っ込みをもらいそうですが(笑)
確かに蜀の代わりになるもう一国を用意して、三国時代は継続してると主張するのは大変苦しい(笑)
(PC)
37 巫俊(ふしゅん)
>>36
あっ、ついでに「266年10月に倭女王が晋に遣使」の元ネタは、
日本史の新しい概説書の『日本の時代史1 倭国誕生』(吉川弘文館、2002)の73ページに出てくるんですが、
『日本書紀』神功皇后六十六年の条に『晋起居注』という書籍の一部が引用されていて、そこに書いてあるそうです。
(PC)