1 無問題

袁紹について

官渡の戦いでたびたび部下の諌言を無視して結局大敗北を喫した河北の雄袁紹。正史での彼の評価はかなり散々なものですが、皆さんはどう思いますか?若輩の自分が恐れ多いですが、袁紹について語り合ってみませんか?
(W21K/au)
2 天草
無問題サン>若輩なんて謙遜しないで下さい(笑)

とりあえず参照は
>>>13官渡の戦い
くらいかな?

官渡の戦いだけを見てみたら、私は戦争を起こす時期が間違っていたとは思えないんです。

間違っていたとしたなら、天子を擁護しなかった事ですよね。

彼個人の性格を考えるなら、やはりプライドが邪魔をしたんだろうと考えてます。
もし曹操がいなければ間違いなく天下は袁紹のものだったのではないでしょうか?
(PC)
3 無問題
天草さん・ですよね〜、何であの時期に天子を擁立しなかったのか?田豊や沮授も再三進言しているのに。当時の袁紹陣営の実力は他の陣営よりもずば抜けていたのに…。確かに、プライドの高さは随所に見られますよね。
(W21K/au)
4 しす
天子擁立に関して袁紹を責めるのも酷な気がします。
当時の状況と言うか一般的な見方から言うとやはり天子擁立は危険な賭けにしか思えなかったのではないでしょうか。
あとプライドの話をするならば、彼は劉虞擁立を画策していた人ですから、自分が認めなかった天子を担ぐのは抵抗があったんではないでしょうか。
(PC)
5 無問題
しすさん・はじめまして、よろしくお願いします。劉虞擁立計画ですか?けっこう無謀な計画ですよね。劉虞本人が固辞して、結局計画だおれに終りましたが。袁紹本人の能力はどんな感じだったんでしょうか?王佐の才があると表されていることから君主を補佐する能力もあったのかなと思いますが
(W21K/au)
6 朱家
初めまして、朱家と申します。よろしくお願いします。官渡の時期はどうでしょうかね?沮授が驕兵と諫めてる事を考えて、少なくとも名分を得てからの戦いなら結果は違ったかもしれません。袁家が滅んでも民衆は100年以上、彼らの治政を讃えたとありますし、戦にしても、官渡以外敗れてないですし、屈強な鮮卑を服従させてる事をみても、もっと評価されるべき人物だと思います。
(A1304T/au)
7 無問題
朱家さん・はじめまして、よろしくお願いします。確かに、北方の異民族を服従させたのはなかなか見事ですよね。尻軽の彼等が曹操との戦いで敗れた袁尚らをかくまうぐらいですから、よほど忠誠を誓っていたんですね。
(W21K/au)
8 天草
天子擁護・官渡の時期の話は別スレに任せるとして、袁紹の性格の話しですね。

朱家サン>初めまして!これからもよろしくお願いします♪

北方の異民族や民衆・豪族達が本当に崇拝したのは、私は袁紹という人間ではなく、やはり三代に渡り三公を輩出した袁家に対してではないかと考えます。

もちろん袁紹が優れていなかったという風には思いませんが、少なくとも曹操の出現・台頭で彼の歯車が狂い始めたのだと思います。
「本来なら自分がやるべき事を…」という感じしょうか?

彼のプライドの高さや曹操への気持ちを測るのに一番分かりやすいエピソードは『献帝春秋』の位を固辞する話しや爵位を辞退する話しですよね。
(PC)
9 無問題
郭嘉は「周公のひそみに習い悪戯に士人にへりくだっているが、人心をうまく掴めない、とても天下を治める器ではない」みたいなことをいってましたよね?あまり部下の人心を掌握するのは苦手だったんでしょうか?
(W21K/au)
10 たろう
郭嘉・ジュンイクは早々に見捨ててますよね…ってかカントで敗戦して曹操に下った有名な人っていましたっけ?
(W21SA/au)
11 朱家
比べるのが曹操ってのが可哀想だけど、人材的には曹操陣営に劣ってないと思うので、器の違いは否めない。袁紹の徳ではなく、名門の威光により、従った将や兵ばかりなので彼らを完全に掌握するのは難しい。そのためか、将たちはある程度独立してるため、足の引っ張りあいが凄い。そこをまとめれないのが袁紹のすべてだが、それまで、この戦法で連勝してたから気にしてなかったと思う。沮授らの諫言を無視したため凡庸の評価だが、官渡で危険を感じてたのは少数で、曹操でさえ運が良かったと言ってる事を考えると、多数決ではないが仕方がないと思う。少数意見を採用するのもトップの才だが、絶対有利と思われる状況では…曹操、劉備、孫策でさえ、袁紹のように負けなしで、絶対有利の状況で沮授らの諫言を聞き入れられたか怪しいと思うんだが…
(A1304T/au)
12 無問題
たろうさん・はじめまして、よろしくお願いいたします。官渡の戦いで下った袁紹の武将は張合と高幹(だったかな?)ですよ。この二人の投降した時期は異説が存在してますが。
袁紹って日本の武将でいうと今川義元みたいな感じですよね…。今川義元も今川氏の最盛期を築きあげたんですが、桶狭間の戦いで圧倒的に優位だったにも関わらず信長の奇襲により戦死…。後の世での彼の評価を凄まじく落とすことになりました…。
(W21K/au)
13 みら
結局 二代目、三代目の息子は親に比べられて散々に見られる
とかは多いと思います
袁紹は一族を繁栄させて領地を維持していた
乱世で倒れるのは平和を維持するのに向いていて、戦時能力が劣っていた
だけなのかも・・・
逆に曹操あたりは平和な世界では小悪党、劉備も地方役人程度の才覚だったのかも?
(PC)
14 たろう
無問題さん始めまして。チョウコウとコウランはたしかに降伏してますょね。自分が聞いたのではたしかウソウ(漢字忘れました…)の警備をエンショウに提案したが無視され陥落直後に下ったと聞きました。他にはいませんでしたか?エンショウが完全に敗走してからわ。
(W21SA/au)
15 単福
私が思うに袁紹の衰退は
@名門の育ちというプライド
A軍師が多く君主のためではなく、お互い競い合うような形に見える
B後継ぎを明確に決めてない
@によって部下の提案を無視し、失敗することが官渡の戦いで度々伺えます。病に倒れたのもそれが原因のように思えます
Aも官渡の戦いで目立った気がします。田豊の死など
Bが特にひどかったかなぁ。袁尚と袁譚、争うのは曹操とケリをつけてからでも良かったと思います
ところで、袁尚と袁譚が協力したら曹操を倒すとまでは言わずとも押し返すことはできたでしょうか?お聞かせください
(PC)
16 ストラップ
>>10
陳淋という優れた才能がありますよ。
(D505iS)
17 無問題
結局、袁紹にも、曹操にも、劉備にも、孫権にも言えることなんですが、お互いが存在しなかったら天下を取れる器の持ち主達ですよね。運が悪いと言うべきか…。まあ、それが三国志の醍醐味というか面白い所ですよね
(W21K/au)
18 てるお
はじめまして、てるおともうします。そうですね。みな別々なら天下をとれる器だとおもいます。
(W21T/au)
19 無問題
再びage
(W21K/au)
20 くわぁまん
何処がのレスに書いたけど、袁譚は親劉備派でしたね。

後継者が袁譚だったら三国志と言う話は成り立たなかったと思いますね…。(笑)
(F901iC/FOMA)
21 無問題
袁譚は劉備に推挙されたので劉備に好感をもっていたようですね。袁譚自身はあまりぱっとしないイメージがありますね。話は代わりますが、袁紹は曹操とどれくらい仲が良かったのでしょうか?確か西田の八校尉時代にお互いの将来の展望を語り合っていたような…。
(W21K/au)
22 天草
>>21

花嫁強奪事件なんていうのは、確か演義じゃなかったですよね?
それを見る限り、かなり親密な仲だったのではないでしょうか?
イメージ的は蒼天航路の彼らの様に、小物扱いする曹操、家柄を軽蔑する袁紹という図式が当てはまってるのでは?と感じてますが、どうでしょう?

どこかのスレで書きましたが、私は袁紹と淳干瓊、曹操と淳干瓊の関係の方が気になりますね(笑)
(PC)
23 元歎
>>21
将来の展望…。↓のことですか?

袁紹が公(曹操)とともに兵をあげたとき、袁紹は公に訊ねた、
袁紹「もし事が成就しなければ、拠るべきところはどの方面か」
曹操「足下の意中はどうですか」
袁紹「わたしは南方は黄河に頼り、北方は燕・代をたのみとし、戎狄の軍勢を合わせ、南に向かって天下を争う。だいたい成功すると思う」
曹操「わたしは天下の智者勇者にまかせ、道義をもって彼らを制御する。うまくいかないことはないでしょう。湯王・武王といった天子はいったい根拠地を同じくしたでしょうか。もし険固さを拠り所とするならば、機に応じて変化することは不可能ですぞ」

二人の性格がよく表れている会話ですね。こういうことを話し合えるということはかなり仲が良かったんじゃないでしょうか?
…無問題さん、これですか?
(PC)
24 無問題
元歎さん・はい、それです。後の二人の政策もこの記述通りでしたよね。
(W21K/au)
25 ストラップ
>>>247-12にも記述がありますが、袁家の家系って名門とされる割りには解っていませんよね。袁紹の父親さえわからない。術は司空であった逢の子と解っていますが。
(PC)
26 へろへろ改
お久しぶりに…。

官渡での醜態が有名ですが、若い時の袁紹は、曹操に負けないぐらいの決断力と魂胆を持ってると思いますね。
宦官を一掃し、董卓との対話に一歩も引かず…。

官渡では孫策・劉表と結び、戦略的優位に立つ。
兵力が高いので、正攻法に攻め、こざかしい策も、もろともしない。

まぁ評価できるのは、ここまでですね。後は、曹陣営のブレインに散ってますが。
(N901iS/FOMA)
27 ストラップ
「後漢書 列伝六十四上 袁紹劉表列伝第六十四上」の、袁紹が顔良を白馬に遣わし、自らも兵を率いて黎陽に進む事が書いてあるあたりに、沮授が従軍する際に宗族を会し、資材を与える場面があります。ここに、「其弟宗曰」とあるのですが、この「宗」というのが沮授の弟の名と考えて良いのでしょうか?
又、「宗族」というのは、一族という意味にとらえても間違いありませんか?
(F2102V/FOMA)
28 赤龍
>>27
はい。沮授の弟沮宗ととって間違いないでしょう。
「宗族」も一族ととって間違いありません。正確には同姓の一族、ここなら沮氏の一族となります。母方の一族とかは含まないみたいですね。
ちなみにこの話、『三国志』の袁紹伝の注にもありますよ。
(PC)
29 ストラップ
>>28
確かに注に引く「献帝伝」にありますね(汗)
見落とし、お恥ずかしい。
(F2102V/FOMA)
30 無問題
確か袁紹の軍勢の様子について曹操伝の注に興味深い記述があったような…。『袁紹の軍勢や袁術の軍勢の兵卒達は満足に飯を食えることはなく、罐や芦を煮たものを食べて飢えをしのいでいた。太祖(曹操)は初期から兵糧の問題に着手し、他の軍雄が飢えている時でも太祖の軍が飢える事はなかった』みたいな記述がなかったですかね?うろ覚えですが、これが事実なら袁紹はあまり補給とか物資を重要視していなかったとも言えますよね?
(W32SA/au)
31 狄仁傑
>>30
魏太祖の軍だけが飢える事が無かった
とわざわざ特筆してあるのは、当時の軍隊行動が基本的に占領地での食糧略奪を根幹としているからだと思われます。
他の時代の正史にも度々記述が見られますが『○○の軍は略奪を禁じていた』と特筆されてる事からも中国史において軍隊の略奪行為は珍しい事では無いと思われます。
また
魏太祖の実施した『屯田兵制』がいかに革命的な施策であったか分かるのでは無いでしょうか?
つまり
袁紹達が特別な訳では無く、太祖が特別なのだと考えられます。
横レス失礼しました
(W31SA/au)
32 無問題
狹仁傑さん・補足ありがとうございました。ふ〜ん…、曹操のやりかたは当時としては革新的だったんですね〜…。この事を聞いてさらに曹操は希代まれなる傑物だったのだな〜…、と思いました。
(W32SA/au)
33 赤龍
>>30
武帝紀注の『魏書』の話ですね。
この文章の主題は狄仁傑さんの言われるように曹操の屯田制の成果を特筆するものであり、袁紹、袁術は代表例としてあげられたにすぎないでしょう。
「あの袁紹、袁術ですらこうしたありさまなのに」というニュアンスも感じられます。
この記述をもとに、特別袁紹が駄目だったとするのは少々酷な評価ですね。
(PC)
34 無問題
赤龍さん・すみません、少々思量がたりませんでした。袁紹は自分もそれなりに評価してます。
(W32SA/au)
35 天草
以前から、袁紹の出自や家系が気になってました。

@袁紹自身の本当の父親
A袁術との関係
B官渡の戦いの際、出て来る子供の行方
C高幹の親など袁紹自身の兄弟

これらについて、目新しい情報はありますか?
(W31SA/au)
36 くわぁまん
官渡戦で最大のキーマンと言えば準于瓊を置いては他に居ないでしょう。
袁紹は何故兵糧方に彼を用いたか?

袁紹にしてみれば元八校尉の同僚として曹操の考えが解ると思ったのでしょうかね?
(F901iC/FOMA)
37 多羅場忍軍
官渡の戦い‥
もしかしたら袁紹軍が勝てたような気がします‥彼が優柔不断だったのも原因ですね。敗因の理由はほかにも多数ぁりますけどね‥。もし、曹操に勝ったとしても、あとあと滅びる運命だったでしょうな。
(V603SH)
38 飛燕
>>35
勉強不足でAくらいしかわかりませんが、術は正夫人との子で紹は妾との子、だった気がします。ですから、正式に袁家を継ぐのは術なのですが、何かあって(忘れました…)紹が嫡子になり、それを術はずっと根に持ってたので、彼等の仲は悪かったそうです。
>>36
袁紹軍の将、といえば顔良、文醜、高覧、張コウ…という感じですが、良と醜は白馬・延津の戦いで討ち死にし、高覧・張コウは官渡城の攻城部隊にいたと思いますから、その当時の袁紹軍で烏巣を守れるような将はいなかったと思います。そこで、袁紹は八校尉に選ばれた、元同僚の淳ウケイを(仕方なく?)選んだのかもしれませんね。
>>37
初めまして、多羅場忍軍サン(^O^)
この戦い自体、袁紹が勝っていておかしくない戦いでしたよね。彼がこの戦いに勝って作り上げる世の中を見てみたい気もします。
長文で失礼(汗)
(F900iC/FOMA)
39 無問題
袁紹軍随一の名将と言えば鞠義でしょう。公孫サンも界橋の戦いで彼の用兵術に完膚なきまで叩き潰され、その後の戦いでも鞠義に破れ続け易橋城まで追い詰められてます。ただ、人間的にかなり問題があり官渡の戦いの前あたりに袁紹に殺されてしまったのだとか…。もし彼が生きていればと思ってしまいますね。
(W32SA/au)
40 赤龍
袁紹軍、私は決して将が不足してたわけじゃないと思います。
ただ袁氏が滅亡したため、詳しい史料が残らなかっただけであり、実際は業績や名前が伝わらないだけで、豊富な人材を抱えていたであろうと思われます。これは、袁氏が名門でありながらいまいちはっきりしない事が多い事、他の群雄の実態が詳しくわかりづらい事などにも通じる理由だと思います。
(J-SA05)
41 飛燕
>>39
そういえばキク義の事をすっかり忘れていました(汗)粛清されてしまったんですよねぇ、彼は。元々、袁紹軍は顔良・文醜・キク義の三枚看板だったのかも。
>>40
そうですよね…袁紹軍には名も無き将が数多くいたに違いありませんよね。曹操軍よりも多かったかもしれませんね。けれど、将の質では曹操側が勝っていそうですよね。袁紹軍は層というか質が劣っていた気がします。烏巣の守備も適当な将が見当たらず淳ウケイに…って感じがします。
(F900iC/FOMA)
42 くわぁまん
曹操は人材コレクターで有名ですが、実は袁紹もコレクターでした…。

確か郭嘉だか荀イクだかが言ってましたよね。「彼(袁紹)は人材を集める事は出来てもそれを用いる事は出来ません」と…(笑)
(F901iC/FOMA)
43 ストラップ
袁紹軍って詳しくは無いのですが‥‥‥沮授、田豊、許攸、応劭、王脩、尹楷、陳琳などが思いつきますね。
応劭などは、曹操の父を陶謙から守れなかった為に袁紹の元に往った人ですね。

他には‥‥‥郭図、辛評、審配、逢紀、張津などが知られている名ではないでしょうか?
荀シンは荀イクの弟ですね。高幹の従弟高柔などもいます。
他、順不同ですが、手元のメモ(調査対象リスト)からコピペです。
蘇由、蒋奇、管統、趙叡、焦触、張南、馬延、高覧、呂曠、呂翔。
誰がどんな人かは全く把握していません。
(PC)
44 虎人参
討論場は初投稿です。
高覧という人は張コウと曹操に降ったあとにも戦いに参加してますよね。
(W31T/au)
45 ストラップ
(PC)
46 ストラップ
>>45
王修王脩の誤りです。
「袁張涼国田王邴管伝第十一」参照。
(PC)
47 飛燕
お疲れ様です、ストラップさん
袁家の家系があったのでとりあえず載せときます。

安(司徒)
├────┐
敝(司空) 京(ショク郡太守)

湯(太尉)
┌───┬┴─┬─────┐隗    逢   成     平(三公) (司空) (左中郎将)
┌┴┐ :
術 紹 紹(?)

文献によっては紹の父親が成となっているため、彼の父親がわからないようですね。
(F900iC/FOMA)
48 飛燕
あれ?少しズレてる(汗)こちらが正

安(司徒)
├──────┐
京(蜀郡太守) 敞(司空)

湯(太尉)
├───┬────┬───┐逢   成    隗   平(司空) (左中郎将) (三公)
├─┐ :
術 紹 紹(?)
(F900iC/FOMA)
49 ストラップ
何進伝読んでびっくりしているのですが、陳琳って、何進が生きている頃から袁紹の主簿だったのですね(汗)
(F2102V/FOMA)
50 赤龍
>>49
陳琳は当時は何進の主簿ですよ。
『三国志』の王サン伝にも何進の主簿だったとあります。
(PC)
51 ストラップ
>>50
確かに王衛二劉傅伝第二十一に「琳前為何進主簿」とありますね(汗)

問題の箇所も良く読み直すと、
「何進に袁紹が入れ知恵した。主簿の陳琳が諌めた。が、何進は聴かなかった」
ですから、袁紹の主簿である筈がありませんね。
お恥ずかしい。
(PC)
52 赤龍
>>23の袁紹と曹操の会話について、今読んでいる本に「袁紹は具体的だが、曹操は誰にでも言えることを言っているだけで、これでは何も言っていないのと同じである」と書かれていました。
既に天下にむけて独自の戦略を持っている袁紹と、いまだ明確なビジョンを持ちえず、一般論を言うにとどまらざるをえない曹操。そう考えると、当時の2人の実力の差が感じられる会話ともとれますね。
(PC)
53 ストラップ
今読んでいる「宦官 側近政治の構造」という本に

「順帝の学友であった宦官大臣の曹騰は、外戚の梁氏と結び付いた。袁紹は貴族の出であるが清流では無い。袁紹の父は梁氏の腰ぎんちゃくであり、また宦官大臣の袁赦から同性のよしみでひきたてられた、いわば宦官派の貴族である」

という内容の事が書かれています(p130〜135 第三章 帝国を滅ぼした二つの側近 宦官時代)。

これは根拠のある記述なのでしょうか?知らない内容が一度に書かれていたので驚いています。
(F2102V/FOMA)
54 ストラップ
袁紹と袁術は異母兄弟とありますが、「後漢書」では紹の父は「成」とあります。

又袁逢の死が光和二年以降であるのに対し、袁紹が左軍校尉になるのが中平五年。左軍校尉になるまでの歴官や喪に服す期間を考えると、この間が短すぎるのだとか。

>>53
「後漢書」によると
「父成、五官中郎将。壮健好交結、大将軍梁キ以下莫不善之」
とあり、袁紹の父は梁氏に従っていたとあります。
(F2102V/FOMA)
55 ストラップ
>>43
崔エンもそうみたいです。
騎都尉に任じられたと。
(F2102V/FOMA)
56 袁家熱愛
こんばんは。
袁家熱愛を名乗る以上、袁紹について言及しない訳にはいきませんので(笑)駄文をご了承ください。
袁紹は、中年こそ、優柔不断である、外見は寛容だが、中身は人を妬む、策謀を好むが用いない、奢りが高いなど、君主としては最悪の評価をうけていますが、若かりし頃は上下関係を気にせず、誰にも快活に接し、寛容ながらリ−ダ−シップもあったので、多くの名士が彼の下に集まった、と好評されています。(これもまた事実なのでしょうか?) これが事実なら、何故彼は愚かな君主に成り下がってしまったのでしょうか?
(912SH/SB)
57 白圭
袁家熱愛さんはじめまして。
最近、スレをよく賑わしていらしゃり、尊敬してます。

カントの戦いって袁紹が攻めるという戦いであって、この戦い自体は袁紹の領土を失わせたわけではないですよね。(この戦いが後をひいて領土を失いましたが)
一回の負けから挽回出来なかったことが評判を落とした大きなきっかけだと私は思います。
袁紹はコウソンサン、カンプク、リュウグなど敵はたくさん倒してはいますし、鳥丸のトウトツとは同盟を結んだりと手腕自体は三国志を通してみてもなかなかです。
幕僚の統制がうまくいかなかったのはカントの戦いのみで、ほかの戦いではうまくいってたはずです。(そうじゃなきゃあそこまで大きくなれません)
結果論ですが、袁紹は攻めに強く守りに弱いという明らかな創造型君主ですね
私には袁紹の人生が項羽に重なって見えます。後の評判は正反対ですけど。
(812SH/SB)
58 白圭
スイマセン!
結論言い忘れました。

カントの戦いは袁紹の有利と言われてました。だが負け、ソウソウは袁紹をおとしめた。
それだけじゃないかと思っています。袁紹自体に変化はないと思いってます。
子の病気で攻めることをとりやめたというのも、ある意味で余裕に見えますし、いまと違い、迷信が流行ってる当時は運が悪そうだと袁紹は思ったのかもしれません。
(812SH/SB)
59 袁家熱愛
白圭さん、初めまして!袁家熱愛です。
いえいえ(笑) なにか、こうゆう語れる掲示板を探していたのです。この三国志博物館を発見し、あぁ、良いサイトだなぁと思い、熱い皆さんと語らいたいなぁと。すみません、偉そうなことを言って(笑)

袁紹の弁護、ありがとうございます。白圭さんは私が言いたいことを全て分かって下さっているようです。 袁紹が凡愚であったのなら、田豊や沮授ほどの傑物が、が彼の下へ参じる訳がないし、いくら名家の御曹子とはいえ、いくらの才も無かったら、反董卓連合の盟主に推薦されることもないし、あそこまで領土拡大を成すことも出来ないはずですしね。
やはり、官渡での大敗戦が彼の評価を著しく落としてしまったのではないでしょうか。負けるはずの無い戦であることが明確過ぎて、奢り過ぎたのでしょうかね?

長文すみません。
(912SH/SB)
60 朱家
愚かな君主なんて評されてないですよ。負けたのは官渡だけだし、人材を募ったのも、屯田も曹操より先。

さて、私の大好きな、麹義。才能的には、関羽、張遼と同等だと勝手に推測してる(笑)、演義だと、趙雲が、綺麗に体を真っ二つにする将として有名(?)
功績が大きく、傲慢になって殺されるが、程度の問題もあるし、袁紹は間違ってないけど、こういう将を、殺しては駄目だと思うんですよ。
因果関係を証明できないけど、麹義の名が史書から消えると、公孫賛に苦戦し、そして官渡。麹義だけをもって推測するのは乱暴だけど、殺されるまでじゃなくとも、他にもいると思う。繰り返すけど、袁紹は間違ってないが…

結果論だけど、袁紹は名士と近すぎる事が、全てかなと思ってます。
(PC)
61 袁家熱愛
朱家さん、袁紹支援、ありがとうございます!お説ご最です。私も麹魏、勿論好きな武将です。 彼の活躍は張コウ、それ以上に匹敵すると思います。羌族の戦法を習得し、袁紹の下で活躍。数々の武功を挙げています。顔良・文醜を差し置いて主将の位置についてますし、公孫賛との戦いでも、大活躍を見せています。袁紹軍屈指の将ですよね。 彼を殺すのは惜しかった。褒めて伸ばす、では手に負えなかったのでしょうか(笑)
あと、彼に羌族の戦法を習得するよう指令したのは袁紹?ですから、袁紹がやはり優秀であったことが伺えますよね?
(912SH/SB)
62 白圭
袁家熱愛様
私は単なるひねくれものですから評判が高い人を引き下ろし、低い人を応援してるだけなのでまた意見は変わると思いますので…そのぅあまり期待期待されても…
正室の子である袁術よりも側室の子である袁紹が反董卓連合の盟主になってることからも袁紹の有能さはわかりますね。
陳某が書いた「火鳳(火寮)原」(読み→カオウリョウゲン)というマンガを知ってますか?あれは袁紹陣営がかっこよく書かれてますので読んでなければオススメします。

朱家様へ
麺義、ソウソウなら殺さないと思いますが、ソウソウの人間度量は別格ですもんね。
麺義以外に勇猛なひとってあまりいませんよね?文醜顔良は演義での誇張とおもわれますし、あまり知りませんが高幹とかはどうです?まだ若いですかね?
魏はカンコウが屯田を推進したというのは知ってましたが、袁紹が屯田をやってたというのは知りませんでしたしかも魏より早く。
名士と近いことがなぜ負けのきっかけになったのか詳しくお願いできますか?
(812SH/SB)
63 袁家熱愛
白圭様 そうですか(笑)ただ、どのような理由でも、少しでも袁紹を好評価していただけたことに感謝しております。彼は過小評価され過ぎて、実際は凡君ではなく、名君だったようですけどね。 カオウリョウゲンですね?分かりました!そんな素晴らしい書があったとは(笑)感謝です。

朱家様 そうなのですか!?袁紹は数多ある書物の中で過小評価されていないのですか? 事実なら自分は死ぬ程嬉しいのですが(笑)
屯田したのも袁紹。人材を募ったのも袁紹。となると、袁紹も曹操と肩を並べる名君であったということになりますよね!?ひょっとしたら袁紹が上?(笑)
(912SH/SB)
64 寿君
朱家さんと同じく、麹義は好きな武将ですね。
公孫サンの騎兵突撃戦術に対して、弩弓部隊による火力で制圧した袁紹陣営でも優秀な指揮官だと評価しています。

また、魏書の記事は、かなり「曹魏に対する敗北者」は「大変凄い英雄だったが、魏武には敵わないさ」と言う書かれ方をしていると思われます。
官渡にしても、許攸がリークしなければ、あのまま曹操は押しきられていたかも知れない。

ただ、もう少し外線包囲を徹底して、曹操を締め上げるべきだったと思います。
(P905i/FOMA)
65 朱家
少しズレがある気がするので…私は袁紹が嫌いですよ。

擁護ではないですが、ほんの一例を…献帝は董卓が擁立した皇帝です。董卓を否定してるのに、献帝は正統かい(笑)
『三国志』は、魏を正統としてるため、献帝を正統と認めない袁紹は、優柔不断とか言われる訳です。歴史的結果にしても、袁紹のほうが、領土も国力も上である事は無視されます。

まるで説明が足りませんが、別に袁紹を擁護してる訳でなく、曹操がどうとかでもなく、客観的には、こんなもんだろう、と思うのです。
宦官抹殺なんて、歴史的価値が高いと思うのですが、誰にも見向きされない。もちろん、そこに私も含まれますが(笑)

麹義の件は、曹操との度量の比較ではなく、袁紹が麹義を惜しいと思わない事が問題で、せめて公孫賛を潰した後ならば…と思います。『後漢書』ですけど、元々、袁紹に寝返ったのではなく、韓馥に反乱した人ですから、懐柔的姿勢が必要だと思いますしね。
(PC)
66 朱家
連レス失礼します。

>>62
袁紹が好きではないので、考えをまとめる気もなく、大雑把ですが(笑)
名士と近すぎると、派閥が出来てしまいます。
協力者的立場の「筍イク、張紘、孔明」と「沮授」では決定的に違います。まあ、筍イクあたりだと、自ら軍権を拒みそうですので、袁紹だけでなく、沮授にも問題がありそうですが…
公孫賛壊滅〜官渡は、旧体制からの脱却、というか、袁紹国家への準備。中身は全然違うけど、官渡前の沮授は、晩年の筍イク。
『漢』の扱い方は違うけど、スタートで名士に近すぎたのが、曹操との違いかなと。
しかし、これは、血の繋がりを重視する儒教で、異姓養子の子、しかも宦官養子の子である曹操、劉備や孫氏も、儒教とは離れた存在ですし、袁紹に先見の明がなかったとするのは酷かなと思いますね。

長文失礼しました。
(PC)
67 袁家熱愛
なるほど…。客観的御意見でしたか。実に深いお話で、勉強になります。
一つ言えるのが、袁家という名門の血と元来の性が、名士を集め、逆に袁紹の足を引っ張る結果になってしまったということでしょうかね?

袁紹への自身評価に対する自信がつきました。
(912SH/SB)
68 寿君
よく読み直したら、>>64の俺のレスは変(笑)。

>>65-66に同意です。
(P905i/FOMA)
69 袁家熱愛
ややや!皆さんが客観的側に離反!?(笑)

自分は、袁紹の何が好きと言われて、挙げる解答が無限(?)にあるのですが、やはり中途半端な所でしょうか(笑)
(912SH/SB)
70 袁家熱愛
麹魏の話が出ましたが、麹魏の風貌はどのようなものだったのでしょうか?誰かの「〜伝」などの書物に記述はないのでしょうか?
(912SH/SB)
71 朱家
残念ながら、麹義の容姿の記述はないですね。

袁紹は、私の中でとても重要なんですよね。
一般的に、三国志の幕開けは、黄巾の乱ですけど、私は、宦官抹殺〜董卓と袁紹の対立、だと思ってるので、知りたい欲求は強いんですが、袁紹となると意欲が湧かない(笑)
誰かやってくれないかと、かなり待ってるんですが一向に…私が言える立場ではないのですが、歴史家にしても、ファン研究にしても、どうしてスルーするんだろう?
(PC)
72 袁家熱愛
確かに。袁家について、というか袁家主体の文献とか本とか、歴史読本とかって無いですよね。 敗北者に関連する物が、歴史から消えうせるのは至極当然ですが(しかも時代が…)、歴史家がスルーするのは、何ともいかんしがたいです。
袁紹、いいんだけどな〜(笑)
(912SH/SB)
73 寿君
まあ、でも袁氏熱愛さんの登場以来の凄まじいばかりの書き込み数(これだけ袁氏関係のスレが上がってるのは見た事ない。2ちゃんねるでも見た事ないwww)のおかげで、我々も袁氏に関して語る機会が増え、それによって袁氏(袁術は知らんがw)を調べ直す事ができただけでも、凄い事ではないでしょうか?。
200〜202年の微妙な時期の事なんて、真剣に読んだ事ない物。
いい事じゃないんでしょうか?。

ただ、さすがに袁紹話は飽きてきた…orz(苦笑)
(P905i/FOMA)
74 袁家熱愛
そうですね!袁家を愛する気持ちは誰にも負けない自信がありますし(笑)少しでも皆様の知識探求のお役に立てたならよしとしましょう!

これからも袁家について語っていきたいと思います!ご容赦下さい ただ、袁家に限らず、他のスレを立てたりしていきたいと思いますのでよろしくお願いします。 寿君さんは、他スレで話に飽きた時などにお越しいただければ幸いです
(912SH/SB)
75 金鳥
袁家熱愛さん初めましてm(__)m ホントに凄い熱愛っぷりですね!最近影響されてますw 熱愛さんは袁家の人間全て熱愛なんですか??
(P904i/FOMA)
76 袁家熱愛
金鳥さん、はじめまして!袁家熱愛です。
はい、凄い熱愛っぷりですね(笑)何故か袁紹・袁家が好きになってしまって。
はい。基本的に袁家人間、全員大好きですねwまぁ、たまに、逢紀のやつ!郭図、貴様!とか、やっちゃった奴らには憤る時がありますね(笑)
(912SH/SB)
77 朱家
袁譚の擁護というか、『三国志』は偏りがあるので…
袁譚はおそらく、袁家直系の後継になってます(袁湯ー袁逢ー袁基ー袁譚?袁基の弟が袁術)
袁基は、袁紹と董卓の対立時、董卓に殺されてます。その後、袁譚に継がせる?根拠はあるけど、決定的ではないので、袁遺の家を継いでる可能性もあります。

袁譚は、袁紹の家を継ぎようがないです。袁紹は君主になりきれてないので、袁譚が争ってるのは、立場的後継です。
父の仇と手を組んだと言われても、袁譚の心情は別として、袁紹は父ではないし、その論拠だと、孫権だって、劉備の仇やん(笑)、敵の敵は味方だし、細かいけど、牧などは世襲じゃないし、漢(曹操)に追認されたのは、袁譚でしょうしね。

「袁譚は袁家直系の誇りを持ち、配下のように(親族なのに…)扱った袁尚を許さない」と表現すれば、そこまで非難されないかと…まあそれでも、最初の戦いに負けてるから、情けないっちゃあ情けない(笑)
袁紹だって、袁術と対立してますしね。
(PC)
78 諏訪
>>77
直系というのは、父祖から子孫へ一直線につながる系統という意味ですから、

袁湯─袁成─袁紹─袁尚

という流れで、袁尚も袁湯の直系の子孫といえます。
袁逢の系統を重視されるのは、袁逢が三公にまでなって袁成よりも官位が高かったからでしょうが、それなら袁隗だって三公・太傅になっていますし、袁紹は大将軍にまでなっていますから、袁逢の家が特別家格が高いわけではないと思います。
袁譚に袁基の家を継がせたのは、袁紹が自分の後継を袁尚にしたかったからでしょうが、『袁紹伝』に「人々は袁譚が年長であることから、彼を立てたいと願った」とありますし、一旦は袁基の家を継いでいても、そちらはまた別の者に継がせれば、袁紹の後継となることは不可能ではないでしょう。
(W51S/au)
79 朱家
あれ、表現を間違えましたか?袁逢が家を継いでるので、直系と表現しましたが…私が重要視するのは袁湯ですね。
正統論には興味ないですが、袁成ー袁紹のほうが、正統性があると思いますよ。

稚拙な文はお詫びしますが、袁紹の家を継ぐ方法がないと言ってるのではなく、国家と言える体制ではないと考えるので、家の後継と、諸将の上に立つ、もしくは袁氏の頭領は、別問題と考えるべきだとの意味です。

詳細は省きますが、袁尚は結構若いと思うんですよ。袁譚は「俺が袁家を引っ張る」ぐらいの気持ちはあったと思いますけどね。まあ、辛評らに、その気にさせられたのかもしれませんが(笑)
(PC)
80 諏訪
>>>250-13-16
荀氏と辛氏も姻戚関係にあったようですし、潁川人の辛評・郭図としては、潁川郡の許を本拠地とし政権の中枢に潁川人が多くいる曹操と手を結ぶことは、あまり抵抗がなかったのかもしれません(それ以前に、追い詰められていたというのがあるでしょうが)

辛評・郭図が袁譚を担いだのも、袁氏政権内で潁川閥を形成しての派閥争いとも考えられます。
(W51S/au)
81 朱家
田豊は官渡時「曹操の背後を襲え」と言ってますが、「南征は駄目だ」と言った時期と、ほぼ同じタイミングなため、どちらかは嘘な訳です。
おそらくは『献帝春秋』で、曹操が張繍と戦ってる時に、田豊は「許を急襲しろ(目的は献帝)」と言っており、脚色して官渡前に差し込まれたんだと思います。それでも、河北統一という揺るがないビジョンを持つ袁紹は、公孫サンと戦ってる訳で、許急襲の良し悪しは別としても、赤子の病気が理由なんて、なかなか悪意のある脚色だなと…

田豊は、曹操自ら劉備討伐に動き、南征が総意に近い状況でも、田豊は頑なに反対したために投獄されたんでしょうね。
(PC)