1 ストラップ

陳宮

吾等死、無葬身之地矣(三国志演義十九回)。
典略曰「陳宮字公台、東郡人也。剛直烈壯、少與海内知名之士皆連結 。及天下乱、始隨太祖。後自疑、乃従呂布。為布画策、布毎不従」(後漢書 卷七十五 劉焉袁術呂布列伝第六十五 )

と、いう訳で、待望の陳宮スレッドです。
大いに語りましょう!!


陳宮@
陳宮A
実録!曹操の呂布退治

>>>4 呂布ファミリー
>>>2>>>266 呂布スレッド
>>>50 曹操
>>>348 張バク
>>>78 張遼
>>>51 陳羣
(PC)
2 ピエール
陳宮祭第一段ですね♪

他スレを見ると演義のような出会いは曹操とはしてないみたいですね。
ですか何故、陳宮は曹操を裏切って張バク達と謀反をおこしたんでしょうか? 勝算とかあったのかな?
(W21SA/au)
3 無問題
おお!シィンキュウ(陳宮)祭りだ!こりゃ早速参加せにゃ!
ストラップさん・彼は若い頃から名のある名士と交流を結んだとありますが、いったいどういう人物と交流をむすんだのでしょうか?
ピエールさん・あの時点で曹操の主力は徐州に向かっていて、留守に残されていた兵力はそれほど多くはなかったはずです。短期決戦に持ち込めば勝気はあると陳宮は踏んだのではないでしょうか?予想外だったのが、荀イク、程イクの凄まじいほどの粘りで曹操の主力が帰還してしまった事でしょう。
(W32SA/au)
4 崇英
祭りじゃ、祭りじゃ♪

生き様よりも死に様を愛される陳公台ですね。(ですよね?)
当初、彼の志は『エン州の安定』と云う、堅実なものだった。
…が、賊を退治するはずの曹孟徳は逆に賊を吸収してしまい、領民の不安は除かれない。
時を同じくして天下に名を知られる豪傑が現れて、少し野望が燻り始めた……

と云うのは、物語的なワタシの中の設定☆
(PC)
5 ストラップ
大事なアンカーを付け忘れていました。

>>>28 曹操軍の組織


>>2
三国志演義の登場シーンはカッコいいんですよね。僕もファンになったきっかけはやはり、中牟の県令であった陳宮が綬を釈き、曹操に同行するシーンですね。

>>3にもありますが、勝算はあったと思います。この事は、程イク伝での程イクの功績を見れば、ある程度納得いくかと。
棗祗が県令を務める東阿は、程イクの機転で騎兵を用いて倉亭津の渡しを切り落とし、陳宮の攻撃からやっと守られていますし、結局曹操の拠点が鄄城・范・東阿の三城になった訳ですから。三城が少なくなっているというのは、程イクに相談する荀イクの慌てぶりで理解できますね。棗祗スレッドは>>>178
又、その後曹操は呂布に負け続けますが、蝗の被害で糧食が不足し、呂布軍は負けた様です。

陳宮も呂布もそうなのでしょうが、一時の勝ちを得る事には抜群に優れた人であり、大局的な動きを察する事が苦手な人だったのでは無いでしょうか?
(PC)
6 ストラップ
>>3
名士の名は不明ですが、エン州の乗っ取りが半ば巧くいった事を考えると、やはりそれなりのネットワークがあったのかも知れません。まぁそれには張バク、張超の兄弟の名が大きく作用したのかも知れませんが、それでもこの兄弟と縁のある人とは交流があった訳で、それなりのものだったのだと推測します。尚、張バクスレッドは>>>348

>>>4
そうですね。最期が何ともカッコいい。涙する曹操にも人間的魅力を感じさせられますね。
あの曹操がその家族を養った、というところも凄い。曹操にとっても魅力的な人物だったのでしょう。

ちなみに僕的には‥‥‥
「寄らば大樹の陰」
よりも
「鯛の尻尾より‥‥‥」
と考えた。
という諸葛亮的な思考の方がしっくりきますねぇ。人材豊富な曹操の陣営よりも、力を存分に発揮できそうな活躍の場を求めた、と。
曹性の事件の事を抜きにしてもそう感じます。
(PC)
7 ピエール
なるほど、一応勝てるべき時期を判断して謀反をおこしたんですねー。
ところで陳宮の性格でよく言われる「剛直」という言葉の意味がよく分からなかったのでちょい広辞苑で調べてみました。
剛直・・・気質が強くて心の正しいこと

・・・・・これだけでは全然分からないので、どなたか補足をよろしくお願いします。
自分の意見を曲げない、悪く言えば強情な人物だったんですかね?
(W21SA/au)
8 赤龍
曹操が陳宮の家族の世話をした件について、『三国志集解』を見ると、胡三省の「陳宮の家を手厚く遇し、それに対し孔融の子は生かさなかったのは、陳宮の妻子は必ずやなにもできないと考えたのだろう」という意見がのってました。
即ち、老婆と娘で男子がいなく、恐らく後ろ盾となるものもいなかった。生かしておいても禍根となることはない。という計算があったのだろうと。
美談に水をさすようで申し訳ないのですが、やはり一面でこうした計算はあったんだろうなとは思います。
(PC)
9 ストラップ
>>7
信念の強い人だったのでしょうね。

>>8
確かに老母と娘の話しかでませんね。あった可能性は高いですね。というか、孔融の子供を殺した時の内容からすれば、大いに考えられる気もします。

とはいえ、裏切ったにも拘らず、又尚配下にしようと考えた男の家族な訳ですから、皆殺しすべきところを助けた、と僕は考えたいです(こういう考え方は、「歴史の考察」という観点からは失格なのでしょうが)。
注に引く典略では、陳宮に対し曹操は老母、妻子と、二度話題にし、陳宮を引留めます。その度に発言する「在明公也」、「亦在明公也」が、もう何だか曹操を信用している様で。「太祖未復言」と、未練がましい曹操に「請出就戮、以明軍法」と、「軍法を明らかにしろ」も、決断を促す陳宮の優しさの様に感じます。
尤も一度裏切った手前、剛直な陳宮は曹操の軍で働く事など出来なかったのでしょうね。
(PC)
10 しす
>>8-9
私も赤龍殿のあげた集解の件は頷けない話ではありませんが、やはりストラップ殿同様の考えです。
呂布伝の「太祖は彼の家族を昔以上に手厚く待遇し、その母を死ぬまで養い、女を縁付けてやった」という記述からも、単に命を助けてやっただけではないことを考えると、美談も強ち否定できない気もしますが。
(PC)
11 赤龍
私も単なる計算だけでは無いと思ってます。しかし、個人的な感情だけで決めれるほど甘くはない立場。陳宮への哀惜の思いに加え、これなら大丈夫という計算もあった、どちらか一方というものではないと思ってます。
(J-SA05)
12 無問題
そんなはなしがあるのですか?個人的には信じたくないですね〜…。曹操もかなり彼を惜しんだのでしょうね…。ここから考察するかぎり、陳宮は彼にかなりの厚遇を受けていたんでしょうね。しかし、なんで呂布なんかにつかえたんでしょうかね?
(W32SA/au)
13 ストラップ
>>11
確かに赤龍さんは>>8で「一面で」と書かれていますしね。まぁ陳宮ファンのロマンチックさが、こう書かせたと思って下さい。
事実、物事というのは、たった一つの理由から結果が生まれるという事は少ない気がします。会社を辞める時だって、たった一つの事を理由に退職届けを出す、という事は稀でしょうから。

>>12
惜しんだのは惜しんだでしょうね。裏切った後に帰ってこいと又しつこく何度も言った位ですから。
「荀攸伝」に「夫陳宮有智而遅」とあります。ここでは悪い意味に書かれていますが、きっと軽率に判断しない、熟考をするタイプだったのでしょうね。

>>5
「程イク伝」に「陳宮叛迎 呂布而百城皆應」とちゃんとありましたね。百は誇張にしても、多くの町が呂布に付いたのでしょう。
(PC)
14 朱家
陶謙討伐を止めた人がいないんですよね。これは有り得ないと思います。おそらく皆、反対したが、曹操の決意が固く、諦めたのでしょう。その中でも強く反対したのが、陳宮ではないかと考えてます。張バクも、曹操を案じて諌めたのではないでしょうか。帰還できた事を、涙を流して喜びあったのに、すぐさま二度目の侵攻は、意味が分からない。私怨によって、一度ならず、二度までも侵攻する曹操は、誉められたものではないです。大志を持つ者ならば我慢できなくても不思議ではないと思いますね。大志を抑えれるだけの魅力を、曹操に感じなかたのではないかと…
(W32K/au)
15 無問題
朱家さん・お久しぶりです。ふ〜む…、そう考えますか?確かに張バクの場合は、名高い清流派の名士であり、そのような残虐行為が許せなかったんでしょうね。陳宮の場合は…、どうなんでしょうかね?
(W32SA/au)
16
初めましてm(_鬼_)m
呂布との謀反は陳宮は、やはり首謀者なのでしょうか?
いくら寵愛してたとして、謀反の首謀者(中心人物?)を救おうとするとは、思えないですし、娘や母を厚遇はしないと思うのですが、負い目や巻き込まれたと言う可能性は、無いのでしょうか?
(W31K/au)
17 赤龍
>>14
かつてブログのほうで曹嵩殺害についてまとめましたが、曹操と陶謙とは、これ以前に袁紹対公孫サンの抗争の中で戦っており、陶謙討伐の直前には陶謙がエン州に攻め込んでいます。
こうした敵対関係にある間柄。曹嵩殺害がなくても徐州には遅かれ早かれ攻撃していたでしょうから、徐州を攻めること自体はそれほど問題のある行動とはとられなかったと思います。
その戦争中の虐殺となると別問題ですが。
(PC)
18 ストラップ
>>16
>>>348-23で省略した部分では、陳宮かなり張バクを誘っています。要約すれば、「呂布の助けを借りて天下の形勢を先ずは見よう」という感じでしょうか。
三国志の「魏書七」での記述も、同様の誘いをしている様です。

>>12
>>1にある様に「後自疑」とあります。何か信用できない様な事があったみたいですね。
(F2102V/FOMA)
19 ストラップ
「白門楼」って何の事かいな?っと思っていたのですが「後漢書 列伝六十五」の注で見つけました。

南門、之を白門と謂う。魏武、陳宮を此に禽にす。
(F2102V/FOMA)
20 赤龍
ちょっと気になるのが、『三国志』の呂布伝の注に引く『英雄記』には「丹陽兵有数千人屯西白門城内」とあり、こちらでは西の門とされているんですね。
いったいどっちにあったんだ(笑)
五行説にこじつければ、白門は西といえるし。折衷案で南西とか?
(PC)
21 ストラップ
>>20
確かに、曹豹が張飛に殺されるあたりの記述にそうありますね。

う〜ん。困ったなぁ。
(PC)
22 ストラップ
>>>107-73
ありま。やっぱり原文で確認しないといけませんね(汗)

とはいえ、
「バク弟超、與太祖将陳宮、従事中郎許シ、王楷共謀叛太祖」
と書かれています。

従事中郎である許シよりも陳宮の名が先に出る事を考えると、陳宮は従事中郎と同等以上の位と考える方が妥当なのではないでしょうか?
とすれば、結構高い地位ではありませんか?
(PC)
23 ストラップ
>>>366-34
>>>388-11
ここを陳宮の命日と考えても良さそうですね。
(F2102V/FOMA)
24 ストラップ
>>23
失礼。
上記のアンカー>>>266-34
(F2102V/FOMA)
25 無問題
赤龍さんの説が正しければ陳宮はクリスマスに死んだ事になるんですね…。クリスマスなんてくそくらえと思っているので、陳宮の霊でも慰めてみようかな?(笑)
(W32SA/au)
26 朱家
赤龍さんのブログ読みました。大義名分は盲点でしたね。
しかし、死を恐れないと、死を覚悟するとは意味合いが違うと思いますし、徐州侵攻は後記のように感じますし、近い将来の目標であっても、時期尚早のように思います。
(W32K/au)
27 ストラップ
「呂布は、東平国に戦力を集中させ、街道封鎖をせず、要崖で護らず、濮陽に本拠を置いているから無能だ」
という内容が武帝紀には書かれていますが、実際は陳宮にも同様に太局観が無かったのでは無いかと考えています。呂布がもうこの時から陳宮の策を退けていたとは考え難いですし。

それともこれは曹操の強がりでしょうか?呂布軍は戦力の分散を恐れた?
(F2102V/FOMA)
28 ストラップ
フィクションで描かれる陳宮って、何だか弱々しいイメージのものが多い様な気がします。兵を指揮する様な印象では無いというか。

三国志演義ではそういうキャラクターでもありませんし、この印象はどこから生まれたのでしょうかね?僕にそういうイメージが無いからか、不思議でなりません。
(F2102V/FOMA)
29
そういえば、私の中でも陳宮って弱々しい感じですね。でも、何故かこれがしっくりくるんですよ。どうも蒼天航路とかコーエーの三国志シリーズの影響が強いです。刷りこみみたいなものなんでしょうね。
それに、傍らに立つ主君が呂布ってのも、あるかもしれません。片方が力の強いお馬鹿さんなら、もう片方は頭のいいおちびさん(笑)、って図式は日本の漫画なんかにはよく出てきますからね。それの影響が意識してないのに表れてるんだと思います。ストラップさんが一番最初に見た陳宮はなんの本ですか?力強い陳宮にも興味があります!
(P902i/FOMA)
30 しす
>>28
中国の大衆小説におけるお約束みたいのがあって、謀臣=弱々しいというイメージが出来上がっているんじゃないかという気がします。
『三国志演義』に限らず『水滸伝』『封神演義』などでも主要キャラは「知略」に長けているか「武勇」に長けているかで二極化され、連環画などでも両者一目瞭然になるように描き分けられています。
(知略型の武将が甲冑を身に纏って描かれることは少なく、身につけていても明らかに軽装だったりします)
陳宮も連環画を見る限りでは知略型のキャラとして認識されていることが解ります。
確かに演義の陳宮は曹操とたった二人で呂伯奢一族殺害したり、曹操を弓で狙って従者を射殺したりと猛々しい面も見せてはいますが、やはり呂布軍のブレインという印象が強いですよね。

現代のゲームやコミックなどにおける三国志のビジュアル的イメージというのはかなり連環画の影響を受けていることは間違いありませんから、文字だけでは解らない固定イメージというのが出来上がっちゃっているのではないでしょうか。
面白いのは横山『三国志』の陳宮は決して弱々しいイメージでは描かれてはいません。
横山氏は「当時は資料がなくて描くのに困った」と連載当初のことをインタビューで語っていましたので、逆に既存のイメージに左右されない陳宮像が出来上がったのかもしれません。
余談ですけど横山氏がこの連環画の影響を受けはじめたのは連載が中断し結局コミックでは描かれなかった官渡後のことと思われ、この頃から絵柄にも影響が顕著に見え始めています。
(PC)
31 ストラップ
>>29
僕にはやはり演義の呂伯奢殺しの印象が強いので、陳宮の印象は「武人」です。
>>30にもありますが、横光ヤマ輝の「三国志」のイメージもありますし。僕が陳宮を最初に意識したのも、もしかしたらこれだったかも知れません(汗)
(F2102V/FOMA)
32
こうして改めて考えてみると、何かを知ろうとする時に一番初めに読む本って重要ですね。特に人物は一番初めに読む本のイメージが大体それ以降もずっと続きますから。私の中では島津義弘は普通に共通語喋ってますからね(笑)これなんかも『島津奔る』の影響ですし、『奔流』の影響で陳慶之は優しい青年、『楊家将』の影響で楊業は厳格な父親、みたいな感じでずっと続いています。こうしてみると、取っ掛かりになる本はいかに重大かわかりますねぇ。これからは取っ掛かりになる本はしっかり吟味して探すことにします(笑)諸葛孔明を知りたくて一番初めに読んだ本が『泣き虫弱虫諸葛孔明』なんかだったら、それこそ大変です(笑)
(P902i/FOMA)
33 迷子
ところで陳宮を語るなら避けては通れぬヶ所がありますよね。
はい、カク萌の件です。
自分はこの件がある限り彼を認められありません。
よりによって袁術の謀略に加担するなど己の価値を下げるだけの行為の様な気がしますし、曹操を裏切ってすぐまた呂布を裏切る…自分は呂布好きなだけに彼はファミリーには入れたくありません。
(912SH)
34 赤龍
>>33
迷子さん、はじめまして。
この件に関しては、私も色々ひっかかるものがあります。

まず注目するのが「カク萌は袁術の内意を受けていた」「共謀者は陳宮」という曹性の証言。
呂布陣営は、曹操につくか、袁術につくかで、随分揺れていますよね。陳宮は曹操に叛いた身。当然親曹操の立場に立つとは思えません。親袁術派の中心的な存在だったという推測が出来ます。
さらに根拠の無い推測ですが、エン州での曹操に対する謀反自体が、袁紹・曹操派から叛し、袁術派につくことが、陳宮の戦略の根底にあったのかもしれません。

だとすれば、もともと陳宮と袁術との間にもなんらかのつながりがあった可能性も考えられます。

この事件は、呂布陣営の戦略方針を巡っての、親袁術派が巻き返しをはかってのクーデター的なものではなかったのか?という想像をしています。
(PC)
35 赤龍
「よりによって袁術の謀略に加担するなど」というあたり、なんとなく世間の袁術のマイナスイメージを反映させるような表現ですが、袁術は当時袁紹と山東を二分する大物だったわけです(このころは徐々に落ち目だったかな?)

そして陳宮としては、それこそ「よりによって曹操に加担するなど」と自分の面子を丸潰れにされたような憤慨もあったかもしれません。

あまり根拠の挙げれない推測ばかりで、呂布、曹操、袁術間の外交関係の時系列の整理も全くできてないいい加減な話ですが、体調不良のためこれ以上の調査は不可能ということで今回はご容赦を。また機会を見て調べなおして見るつもりです。
(PC)
36 迷子
赤龍さん、はじめましてです。
体調が悪いのであれば、無理をなさらずに。自分のカキコミなどスルーされて結構でしたのに…

さて、釣られますね(笑)
まず、呂布陣営が曹操派と袁術派に分かれ…とは一体、何の事でしょう?
演義のお話の事でしょうか?
それとも史実の事ですか?
自分の拙い資料ではその様な事実が確認できず申し訳ありません。
ただ、カク萌が反乱を起こしたのは196年の事で袁術が皇帝を名乗る前年の事なんですが…それまでに曹操派と袁術派に分かれ主導権を争う様な事があったんですか?
(912SH)
37 赤龍
>>36
まず最初に、演義のイメージが完全に払拭できぬまま論を進めている可能性も大ですが、史実について議論しているつもりです。
次に、何度も繰り返していますが、現在の私の主張は断片的な記述から推測した仮説の段階です。そもそも、そのまま丸々記述があれば、仮説なんて建てる必要が無くなりますしね(笑)

時系列の調査をしましたが、建安三年六月は、曹操の天子奉戴以前。確かにこの時点で曹操に従うという意見はまだでないでしょうね。呂布陣営の外交方針が袁術か曹操かに二分されるのはもう少し後でしょうね。

ただ、迷子さんはこれ自体を演義扱いされてるようですが、呂布伝の記述、当時の勢力の状況、配置から、後に呂布陣営の外交方針が大きくこの二つに絞られるのは明らかであり、両者の間で揺れている以上、そこに二つの派閥的存在を想像することは、それほど小説と馬鹿にされる仮説でしょうか?
(PC)
38 赤龍
そして、私の仮説の主軸は、陳宮の戦略自体が当初から親袁術勢力を前提としたものではなかったのか?というものです。
そこら辺は>>34-35で書きましたが山東諸侯が大きく袁紹派(曹操含む)と袁術派を軸に争っていたことを前提とするものです。
そうした袁術を主軸とする戦略を建てる陳宮らにとって、なんらかの不利な事態が起こり、それが巻き返しを図るクーデターにつながったのではないか?と。
実際、呂布が徐州を奪った時点では袁術との友好関係が結ばれたようですが、袁術が劉備を攻めた際は、これに協力すべしという意見を退けていますね。これも戦略方針の微妙なぶれとは考えられないでしょうか?
(PC)
39 赤龍
ついでにいうと、時系列の問題もあるものの、陳宮は呂布陣営の中で地位こそ重きをなしたものの、呂布との関係はあまり良好でなかっただろうということも付け加えておきます。
『典略』にも「呂布のために策略を立てたが、呂布はいつも従わなかった」とあり、『魏氏春秋』にも、呂布の妻の「将軍は陳宮を手厚く扱っているが、とても曹操ほどではない」という微妙な距離感を示す記述がありますね。
こうした両者の不信感があったから、あの事件が起きたのか、事件発覚から両者の距離が開いたのかはなんともいえませんが。
(PC)
40 迷子
どうやら自分の文が下手だった為に誤解させてしまった様ですね。謝ります。
自分は馬鹿にしてるつもりはありませんです。
どころか、赤龍さんの言われる仮説(陳宮が当初から袁術と組む戦略だった)に、
「なるほど、そう言われればそうだよなぁ」
などと感心し、同意する始末であります。

そうであるならば、彼が呂布と不仲?だった点も併せて考えると、この事件が納得できる気がしま…いや、やっぱりできません(笑)
(912SH)
41 迷子
ところで、陳宮の人間性についてはどうお考えでしょうか?
どうも彼は誰とも合わない様なキャラですよね。
例えば自分の中では、審配とかぶるんですが…
(912SH)
42 赤龍
いえ、こちらこそつい語調の厳しめの反論になったようで申し訳ありません。

何度も繰り返していますが、これはまだ根拠が全然不十分な仮説の段階ですので、問題点の指摘は大歓迎です。>>37-39も迷子さんからの指摘を受けて再考しなおしたものですし。
私自身も考慮中の不安定なものなので、簡単に同意すると危ないかもしれないですよ(笑)
(PC)
43 赤龍
陳宮の人間性ですか。

たしかにその剛直と評された性格や、曹操に屈しなかった最期、審配に共通するものがありますね。
ただ、審配が忠を前面に出した最期なのに対し、陳宮の意地は忠なんかよりもむしろ、己の智に対するもののように感じています。そこが両者の大きな違いかなと思っています。
例の反乱未遂?も忠よりも己の戦略を重んじたためなのかなあ?と。

己の智に絶対の自負を持った誇り高き策士。現時点ではそんなイメージを感じています。その行動理念が自分への忠ではないことを呂布が感じたのも、陳宮への不信の一因だったのかも?いや、これはもう完全に小説的な私の妄想ですが。
(PC)
44 迷子
いえ、それはおそらく妄想などではありません(笑)
きっと、そうだったのだろうと思います。
自分は彼の人柄をはかるうえで高順という人物を物差しに使います。
「清廉潔白で威厳があった」と言われる彼です。
陳宮は高順と不仲ですよね。それは恐らく高順の潔白さが陳宮と言う人物の汚さを受け付けなかった結果ではないか?と思うのであります。

自分の才に溺れ、我を通す為には平気で臣下の道を踏み外す。
それが自分の陳宮に対する評価であり、為に好きになれない理由なのです。
(912SH)
45 しす
>>44
カク萌の件は呂布伝の注にしか見えず、本当に陳宮が首謀者なのか?首謀者ならばなぜ呂布は赦したのか?
まずこの辺りが解らない以上、これだけを根拠に陳宮の人物像を決めるのはどうかと思いますが。
と言うより迷子さんのカキコを見ているとこの記述のみで自分の嫌いな人物像を押し付けているようにしか思えません。
高順の件にしても完全に想像だけで根拠に欠けています。
「剛直烈壮で、若いころから海内知名之士と皆連なり結んだ」と書かれる程の人物…断片的な資料だけでそこまで決定付けてよいものでしょうか?
(PC)
46 迷子
いや、良くないですね(笑)
しすさん、ご指摘の通りでございます。
他に何か陳宮に関する「これは!」的なエピソードがあれば、お教え下さい。お願いします。
(912SH)
47 しす
陳宮と言えば曹操をエン州牧に据えるべく奔走した人物ですよね。
彼が曹操に背いていなければ、これはかなりの功績として評価されていた気がします。
また曹操に背いた時に百余城の主が呼応したとありますから、エン州ではかなりの影響力を持った人物であることは確かだと思います。
気になるのは曹操に背いた件にしても、カク萌の反乱の首謀者の件にしても、彼の心情がイマイチ見えてこないことでしょうか。
小説などの扱いも各作家によってまちまちで、想像力を掻き立てる人物ではあるんですよね。
個人的には赤龍さんや迷子さんの考える人物像にしても、肯定も否定もできないというのが正直な意見です。

もちろん私なりの人物像というのも考えてはいますけど。
(PC)
48 巫俊(ふしゅん)
>>44
>>45
>>46
>>47

虞翻伝の引く『会稽典録』の虞翻の言葉のなかに陳宮という人が出てきますが、別人でしょうか?

しすさんが挙げられた記述「剛直烈壮で、若いころから海内知名之士と皆連なり結んだ」は張邈伝の引く『魚氏典略』が書く陳宮の小伝らしいですが、
「剛直烈壮で・・」の文に続いて、曹操に従い曹操を疑い、呂布に従い呂布が陳宮の計に従わず、そして下ヒで敗れて陳宮が曹操の捕虜になったと文があり、そして例の陳宮最期の場面を書くのが『魚氏典略』のようです。
私はこの陳宮最期の場面を見るに、最期の場面になって陳宮は「孝治」と「仁政」を初恋の相手とでもいえる曹操に求めたものと思いました。
老母と妻子を曹操に扶育させる為のいささか賢(さか)しげでツンデレな智略であるとも思いますが、
そこに曹操の統治へ期待と絶望がこもっているように感じます。

とこれはしすさんがおっしゃるように「人間像」である訳で、史料をみて私が抱く気持ちを述べているに過ぎません。
史料を見て、そしてそれを増幅させたのが「人間像」であるともいえます。
史料というのは文章の羅列であるのに過ぎないので、人の気持ちまで完全に文字にして写すことはできませんからね。
この「増幅」という工程において、妄想であれ思慮であれ何か「正史に書かれてはいないこと」を補完している意見であるということを、少なくともこの掲示板で語るのであれば意識しておいた方が円滑に議論ができるのではないでしょうか。

各氏が「増幅」したものについては、史料的な裏づけや確実性がある訳ではぜんぜん無いので、そこら辺を勘違いして史料と「増幅」したものを同じものであると思って書き込むと、しすさんが指摘されたように、議論する余地が少なくなるんだと思います。

「私の妄想ではこうだと思う」
「史料ではこうありますね」
「やっぱり妄想はあたってましたか(笑)」
では歴史を疑うというプロセスが完全には生きていないんですよね。
要するにこの場合は迷子さんの持論が言い尽くされたら、たぶん議論も止まるだろうということ。
それを防ぐには、しすさんみたいな定見が必要だし、誰かがほかの立場から意見を言う必要があるというわけ。「討論」を円滑に続けていく為に。
(PC)
49 巫俊(ふしゅん)
それで陳宮の最期についてですが、この辺の物語はみなさん承知のことですかね?
私は実は『三国志演義』の完訳本は中学生のときに一回通読しただけで、それ以来は「正史」の方に熱心だったので「演義」の方はゲームや小説などの創作劇の原典であるくらいにしか思ったことがありません。
つまり演義は正史と比較すべき等価な存在だと思ってはいないということです。

それで私は三国志関係の書籍というものを家にはほとんど置いてはいないもので、最近はずっと台湾のサイトで正史の漢文(原文)を読んでいます。
三国志演義も台湾のサイトで漢文を読むことができます。
どちらも台湾文字をインストールしたPCなどでないと閲覧することができないと思いますが、漢文でもいいから読んでみようという人、PCを持ってらっしゃる人にはお薦めですよ。

そして陳宮の最期についてですが、陳宮の最期の言葉が本心とかけ離れた詐欺的で計略的な発言で無い限り、陳宮の本心と密接に関わる発言であると思います。

それ以前に、この『魚氏典略』の作者の創作記事だったりする可能性もありますが、それは別の機会に考えましょう。

陳宮は曹操を擁立したり、呂布を擁立したりと、「二君に仕えず」という儒教的な倫理から外れているかもしれない人です。
その疑いは呂布の妻が言っていますね。たしかそれは呂布伝の引く『英雄記』だったはず。

ですがこの倫理、どうも陳宮の当初の理想、つまりある地域において「仁政」を布いて覇王の業の礎とするという曹操擁立時の陳宮の考えですが、これを現実の群雄割拠の場で実践しようとすれば、何かを犠牲にせざるを得ません。
陳宮はおそらく「君を裏切った」という倫理的な批判を受けても理想に従って行動することを選び、そして呂布を選んだのでしょう。
このことが失敗であったのか別の失敗要因があったのかは別に考えるとしましょう。
(PC)
50 巫俊(ふしゅん)
そしてここが重要なのですが、陳宮に対して曹操という人は、おそらく理想と現実がぶつかったら現実を取ってしまう人です。
だから徐州を攻めて虐殺をしたと批判されても曹操は揺るがないし、献帝をあっさり擁立したり袁紹のご機嫌を取ったり或いは詐欺的な計略を使っても、「現実」を曹操にとって優位に進むように、曹操は判断を求められる場所で選択していったのです。

陳宮はそれが出来なかったのだと思います。
鮮やかな手腕をもつ陳宮ですが、陳宮は計略を練るのが遅いという曹操陣営の参謀陣からの指摘も、陳宮は現実対処能力よりも、理想に従って構図を描きそしてその構造を戦略的に実現しいく為に「ゆっくりと根回し」することを得意としたのだと思います。

高順との不仲は、高順が潔癖すぎて陳宮を理解してやれないというあたりにありそうです。
陳宮は理想の為には王道を行き、計略を練り、そして倫理的には問題のある行動を起こしますが、それは人間という存在のダークサイド(暗黒道)を陳宮が知っているからではないかな?

理想の為に王道を行こうという人は、王道のまえには現実という大きなカベがあることを痛いほど知らされるはずです。
どうすればそのカベを乗り越えられるか?
皆さんならどうするでしょうか?
私と私が思う陳宮の「人間像」であれば、自分の思う王道の為には社会からの圧力に抗してでも貫き、そして英主を得て社会を内側から変えていこうとすると思います。
しかしその英主と思った人が現実主義者で、秩序を維持する為には誰であれどんな思想であれ現実から遊離したものではなく現実に即した判断をしていく人であるとしたら?
部下としての陳宮は曹操にとって役に立つ男であっても、陳宮の理想を満たしてくれる曹操ではないのです。

曹操はいつか陳宮を排除するのではないか?
常日頃社会を変革すると言っている曹操だが、陳宮と理想を異にする新参の参謀たちが団結して「陳宮を信用なさいますな」と意見してくれば、曹操はやすやすとその「現実」を受け容れて陳宮に冷や飯を食わせるのではないか?この男(曹操)は何を考えている?

とまあ、私は曹操って現実主義者で理想よりも生き延びることを大切にすると思っていますし、曹操は都合よく理想を変えていける人、現実の為には友人でも裏切ることのできる人だと思っています。
(PC)
51 赤龍
>>48
『会稽典録』の該当箇所は、初平の末年の会稽太守王朗と虞翻との問答とされているもので、王朗の求めに応じて会稽郡出身の優れた人物の名を挙げ、その中に「陳宮」なる人物の名があります。そして、この時すでに書籍に名を残す過去の人物でした。

一方、このスレの陳宮は『典略』に「東郡人」とあります。

出身も時代も違う、同姓同名の全くの別人物であることは確実でしょう。
(PC)
52 朱家
巫俊さんと同じですが、曹操は「嘘吐き」で、陳宮は「正直者」でしょうか(笑)

ところで、陳宮は呂布を選んでるのでしょうか?曹操に敗れた後は、呂布に従いますが、この時は選択肢がないような…まあ、自分が蒔いた種ですけど、私はちょと違う見解なんですよね。
(PC)
53 ストラップ
先日思ったのですが、呂伯奢の家族を殺した際、曹操の連れが若し、郭嘉や荀イク、程イクだったとしたら‥‥‥流石に曹操は失敗してたんじゃないかなぁと思うんですよね。流石に一人では無理ですよ。

陳宮って武闘派の集団に入ってしまったが為に、頭脳担当みたいなポジションですが、実は関羽みたいなどっちもやれる男だったのではないかと思います。フィクションの話ですけど。

僕の希望では、殺した人数が10人だとしたら、陳宮の担当が7で、曹操が3かなぁ。
(PC)
54 諏訪
>>53
フィクションの話であることを承知しつつ、あえて書き込みますが…

撃剣を好くした人物というと、曹丕・崔エン・徐庶・魯粛など、戦場の勇者とは思えないような人物が浮かび上がります。
戦場での武勇と武芸の腕前は必ずしも一致するわけではないのですから、郭嘉・荀イク・程イクが武芸の達人ということであっても、別におかしくはないと思います。

まぁ確かに「頭脳派=武芸は苦手」というイメージはあると思いますが。
(W51S/au)
55 ストラップ
書き方悪かったかな?

彼等が武術を苦手と書きたかった訳では無くて、武術が苦手な人と二人であの状況なら、さすがに全部を一人で殺す事はできないだろう、という意味です。
つまり陳宮は、実戦的な武術の心得がある人物として描かれていると、そう言いたかった訳です。
(F2102V/FOMA)