1 皇澪桜

呉の名将たち

はじめまして。皇澪桜と申します。以後お見知りおきを…m(__)m
単独スレをたてるほどではないが色々語りたい呉将について討論しましょう!
(W21CA/au)
2 皇澪桜
私がまず気になってるのは蒼天で描かれた赤壁戦時に抜擢された武将たち。甘寧や呂蒙なんかはわりかし知られてますが、周泰(孫権を守った?)とか蒋欽なんかはどういった人物でどういった活躍をしたのでしょうか?
(W21CA/au)
3 霧帝竜
呉といえば太史慈だと思います。
孫策の揚州攻略のときに孫策と一騎打ちで互角の結果を出した勇将です。孫策軍に負けた揚州を支配していた劉鷂は戦死。
太史慈はひどく死をねがうが孫策の寛大な心に感動し10000の残兵を率いて孫策軍に従軍したのは有名な逸話です。
(913SH)
4 巫俊(ふしゅん)
劉ヨウは曲阿で敗れたあと豫章まで逃げてそこを統治していますので(直後に豫章で内乱が発生しますが)、孫策に敗れて戦死したという記録はありませんよ。


又、曲阿や秣陵のあたりはもともと揚州刺史の治所ではなく、揚州の諸郡を力で屈服させるだけの余力をもたない劉ヨウが居座ったところです。
(PC)
5 たか
周泰で有名なのは若い頃の孫権を守って多数の傷を負ったことでしょうね。後年酒の席で、孫権が周泰の服を脱がしてその功績を諸将の前で讃えたっていう話もあります
(SH903iTV/FOMA)
6 皇澪桜
呉将は活躍の割に目立たないですよね(汗)
皆様は呉将の功一等は誰だと思いますか?
また呉で5大将軍を決めるなら誰を選びますか?
(W21CA/au)
7 たか
個人的には徐盛、程普、黄蓋、周泰、甘寧をあげたいかな?他にも候補はいるんだけどね
(SH903iTV/FOMA)
8 皇澪桜
こんなお題をあげてるわりにあまり呉将の事は分からないという愚か者…(汗)黄蓋、韓当、程晋とかですかね…。
他の意見もお待ちしてますm(__)m
(W21CA/au)
9 赤龍
>>2
なんとなく地味なイメージの(失礼)蒋欽さんについての詳細は、こちらも参考にどうぞ。

http://blog.livedoor.jp/amakusa3594/archives/50084754.html
(PC)
10 赤龍
ついでに、周泰、蒋欽らと同期のイメージでありながら、知名度は一歩劣る董襲も。
その眉唾ものの伝説とともに。

蒼天航路でも「董襲が鑑とともに水没」の台詞でかたづけられてましたね(笑)

http://blog.livedoor.jp/amakusa3594/archives/50079783.html
(PC)
11 しす
演義における蜀の五虎将にせよ、今日魏の五将と呼ばれる人達にせよ、一つの伝で纏められている人達ですから、呉の場合も呉書の10巻辺りの武将で纏めるのが筋なんでしょうが…
呉書の10巻って人物多すぎ(汗)
個人的には甘寧、蒋欽、周泰、徐盛、潘璋辺りをチョイスしたいですね。
功一等はやはり陸遜以外にはいないような気が。
(PC)
12 たか
呉の将のイメージがいまいち薄いのは演義での活躍が少ないからじゃないかな?官渡にも参戦してないし、反董卓連合での活躍もあまりないし、蜀ともあまり戦ってないし。
(SH903iTV/FOMA)
13 皇澪桜
なるほど…呉ファンは多く、やはりレスも多し(嬉)
結局のところ孫権が目標にしていたのが何だったのかいまいち分かりづらいです…
なんか防衛ばっかで攻めたのは合肥以外イメージない…
(W52CA/au)
14 たか
攻めたくても攻められなかったんじゃないかな?呉は領土のわりに人口が少なかったし、魏と領土を接してるとこが多かったしね。人口不足を解消するために部下を亶州(今の台湾か沖縄?)に向かわせて人狩りをさせたぐらい
(SH903iTV/FOMA)
15 皇澪桜
山越退治もあったみたいだし地盤があんまり安定していなかった?のかな…
国力のある巍(←字が出ない)ならともかくそんな状態で他の二国と渡り合えたのは呉将が凄かったことを物語っているのでしょうか…?
(W52CA/au)
16 たか
呉が守りに徹していたから後回しにしたんじゃないかな?蜀は諸葛亮や姜維が積極的に北伐してたし。それ以前に呉は孫権晩年は内紛でゴタゴタしてたからね。攻められたらもろかったと思う。
(SH903iTV/FOMA)
17 巫俊(ふしゅん)
あの〜、できれば正史を直に読んだりして語って頂ければ幸いです。
読める環境に無いなら仕方ありませんが、「攻めてない」「呉将が凄い」「山越が・・」「攻められたらもろい」ってのは、過去の三国志ファンが描いてきた呉のイメージを、皇澪桜さんなり、たかさんなりの印象で語っているだけですよ。

孫呉はけっこう攻勢に出てますよ。
諸葛亮や姜維が目立つのは蜀が小国だからです。
呉は江南にどっしり構えて後背の少数民族潰しに余念がないですが、そんな後ろ向きな立場の割には荊北や合肥に何度も何度も攻めかかって行っていますし、
徐州や豫州を奪取できなかったのは合肥が陥落しないからというだけ。

荊北についても、攻めてはいるんですが、河南からの援軍やら荊北の田舎の豪族や蛮(荊北にいる山越の別種)の向背など、長江以南の統治とは違って長江以北では魏の援軍や籠城の軍と戦いながら、荊北の諸郡県をひとつひとつ統治していかなきゃいけないんです。
そんな神業簡単にできませんって。

呉が弱腰だというよりは魏の南方軍がよく整備されているんですよ。
ところで二宮の変での混乱の隙に魏が進軍してきたって話は聞かないんですが、私が知らないだけですか?

私が知ってる限りでは、司馬昭の時代になるまでは呉の防衛力はそれほど露骨に悪くなっていた訳ではないと思ってるんですけど。
(PC)
18 たか
いや、孫権晩年の混乱で攻めてきたとはいってないですよ。ただ混乱したときに攻めてこられたら案外もろかったんじゃないか?って言ってるだけです。攻めてないというのは呉の場合、局地戦が多い感じがしたのでそう表現してしまいました。
(SH903iTV/FOMA)
19 巫俊(ふしゅん)
二宮の変は「混乱」とか「二分」とか呼ばれるんですけど、私が知っている限り内乱になったということは聞いたことがないです。
つまり上層部では主導権争いでゴタゴタしてるんだけど、前線の現場がモタモタしたという話を聞かない。

二宮の変は孫権の晩年の十年内外の期間の政争を指しますが、どうもこの事件は陰湿的な性格があります。
後継者を巡った政争には、各陣営の将校が争乱を起こして軍事的に解決を計ろうとする種類のものもありますが、二宮の変は違うのではないでしょうか。

魏が攻めてきて「もろくなる」ということは、権力関係のもつれからいっそ魏に降伏してしまおうという指揮官が出てくるような状況を指すと思います。
赤壁の戦いの際には孫策の従兄の孫賁が曹操に降伏しようとしていました。

その際と比べると、二宮対立の醜聞があるとはいえ、丞相以下の官吏は常に任命されて配置されているのであり、陰性の二宮の変が即呉軍の崩壊につながるという考えは納得しがたいです。

むしろ、二宮の変の結果、呉の政権運営の仕組みがズタズタになっていったのが呉衰亡への原因であって、それと二宮の変当時の防衛能力を混同しない方がいいと思われます。
(PC)
20 皇澪桜
巫俊さん>
申し訳ないです。正史を買おうと以前から思ってるんですが、金銭的な問題から先延ばしにしてる状態でして…私が発言してるのは〜準拠(正史、演義)の漫画とかの情報をみて持った感想が主なのでここで議論するレベルではないカキコですね。申し訳ないですm(__)m
(W52CA/au)
21 赤龍
>>17
巫俊さんの仰りたいこともわかえいますが、正史を読んでない方を見下すような発言、萎縮させるような発言はあまり好ましくないと思えます。
誰もが巫俊さんのように歴史を学問として扱ってるわけでないのですから。

>>20
皇澪桜さん、なので「ここで議論するレベルではないカキコ」なんてことは全然気にすることではないと思いますよ。
確かに小難しい話をしてるスレもありますが、初心者にも参加しやすいスレだって、色々ありますし。これからも、是非ご参加を、と呉ファンの私は祈っております(笑)
(PC)
22 赤龍
>>21
誤字失礼。
わかえいますが→わかりますが

さて、このスレのおかげで久々に呉ファンの魂に火がつき、ブログの方に久々の投稿。
演義では、地味なやられ役。蒼天航路で独特の個性を与えられた潘璋。呉の人って、文官武官問わず、癖が強い人が多くて楽しいですね。

http://blog.livedoor.jp/amakusa3594/archives/50373451.html
(PC)
23 ストラップ
>>21
巫俊さんの存在が、このスレッドを締めているのも事実なんですけどね。解説は読むとなかなか面白いです。

>>20
とはいえ、その巫俊さんのコメントを引き出したのは皇澪桜さんですし、萎縮は不要だと思いますよ。
ただ、漫画や小説などの物語は飽くまでも創作なので、注意が必要です。
「三国志演義によると〜」の様な書き方をすれば、問題無いと思いますよ。

>>3
http://blog.livedoor.jp/amakusa3594/archives/50089295.html
に赤龍さんの優れた記事がありますw
専門スレッドは>>>94です。

尚、呉書関連の人物のスレッドは、
http://359kk.nobody.jp/kakosure-3.htm
から探す事が可能です。
ここに無いものとしては、
>>>400 孫堅
>>>401 韓当・祖茂・程普
>>>441 張昭
>>>328 劉表
などがあります。
(PC)
24 赤龍
>>23
はい、私も巫俊さんの書き込みの本題自体は非常に面白いものだと思うのは同感です。
ただ、最初の一文が、正史を読んでない人の参加を萎縮させるようで残念だと感じましたので。
知識のある方だからこそ、そうした面での配慮も少し気を配っていただきたいなと。せっかくの討論場の活性化のためにも、参加しやすい空気作りを。

ストラップさんの言われるように、私自身も他の人のなにげない書き込み、素朴な感想なんかから、あたらしい発見があることが多々あります。それが様々な人が参加するこうした掲示板のいいところだと思います。
(PC)
25 皇澪桜
色々拝見させていただいております。まだまた若輩者で至らないところもありますが温かい目でみてやってくださいm(__)m
さて、呉将を盛り上げようキャンペーンとして、新たな議題をひとつ…
周喩、魯粛、陸遜、張昭、張鉱なんかは有名ですが、内政や外交、戦略・戦術に長けた呉将についても語っていきましょう!
(W52CA/au)
26 たか
三国志のほうは購入してないもので…。もっと勉強しないといかんですね
(SH903iTV/FOMA)
27 朱家
推測ですが、「防衛ばかり」「攻めてない」とは、蜀(姜維含む)より侵攻回数が少ない、と言いたいのだと思いますが、それを書いて欲しいのです。
合肥侵攻を認識していて「防衛ばかり」だと、一般的には意味不明であり、相手の意図を理解できない状態で、言葉を否定する事になり、基本的に三国志と関係ないため、摩擦が生じ易いのです。それを回避するために「侵攻を認識してるのに、攻めてないって、どういう意味?」との質問は、意地悪い質問と受け取られがちで、どちらにしても議論としては困るんです。
後記であれば「戦争は回数ではなく成果だから…」との返答になると思いますが、これは言葉ではなく、事柄の否定ですね。

長くなりましたが、自分の意図や、そう考える理由をしっかりと伝えれば、演義だろうが、何だろうが、議論として成立します。もちろん自分への戒めも込めてですが、その事を留意して頂きたいと思います。
(PC)
28 朱家
連続ですが、本題へ(笑)
皇澪桜さん、はじめまして。

純粋な功績という点では、陸遜に並ぶ者はいないと思いますが、歴史的には、基礎を築いた孫策時代になると思うので、周瑜、二張でしょう。
国家形成では、二張の名声は極めて重要で、張昭のほうが名声は高いものの、幼馴染みの周瑜とともに、最初からの協力者と思われる張紘を一番としたい。
では、具体的に何をしたかと言われると、かなり地味だと思いますが、どこの馬の骨とも分からぬ孫策という若造に、全国的な知名度のある張紘が協力した、もちろん、孫策も礼を尽くしてますけどね。
(PC)
29 皇澪桜
朱家さん>
はじめまして。宜しくおねがいします。他のスレで色々な発言の難しさの話を見ましたが私もやはり言葉足らずでした。
巫俊さんはじめ皆様からの叱咤激励を受け止めて以後精進していきます。しかし深く討論するにはやはり正史購入が必須ですね。

陸遜や二張はそのスレで語るとして呉の内政に関わった人達(←具体的にあげれない辺り無知な証(汗))のエピソードや先にあげた呉将達についても討論していきましょう。
(W52CA/au)
30 たか
そうですね。発言がはっきりせず、誤解を生じさせてしまってすみません。以後気をつけていきたいと思います。呉の中では丁奉とかが好きですね。
(SH903iTV/FOMA)
31 皇澪桜
私は朱桓とか好きですね。ゲームの印象が強いですが…(汗)
人物辞典に載ってる事以外のエピソードってありますか?
(W52CA/au)
32 諏訪
はじめまして。諏訪と申します。
さて、朱桓に関してですが、呉の武将らしい(?)エピソードを紹介します。

ある時、作戦に関する揉め事から、同僚の胡綜を呼び出して殺そうとしますが、側近の一人が胡綜に知らせたため、胡綜は難を逃れます。その事を知った朱桓はその側近を殺し、さらに諫言した副官をも殺してしまいます。
しかし孫権は、これまでの功績から、その罪を問いませんでした。
ちなみに、殺されかけた胡綜も酒癖が悪く、酔うと周りの者を殴りつけたりしたそうですが、これも孫権は責めなかったそうです。

呉の武将って問題児ばかりですね(笑)
(W51S/au)
33 巫俊
今であれば孫呉は隣国から制裁されても仕方ないようなことをやっていますね。当時はどこの国も大同小異だから平然として君主国を吹聴していられるのですが、この呉の治政におけるような慢心のツケは幾代も積もり積もって今の中国が払っている訳です。
呉の戦争の天才にして平和の凶徒たちは、息子の代になると会稽や東冶(福建)に流されることが常態になっているので、よほど迷惑な存在だったんだなと思いますね。
安全保障のうえで欠かせない同盟相手が盗賊同然の軍閥だということは今もままあることなので、ましてや親切で友愛の気持ちを交わした間柄の友人、仲間が法律を平気で犯しているということであれば(違反駐車とか)誰もが体験していることであると思います。
(PC)
34 巫俊(ふしゅん)
以下に提示するのは『三国志』呉書、呉主権伝「赤烏四年(241年)」の条です。
呉の「積極的な攻勢」の中でとくに目立つ241年の戦役をご覧ください。きっと呉の「退嬰的態度」の誤解が晴れると思います。
とりあえず漢文を載せるだけにしますが、日本語訳が欲しかったら要請のコメントをお願いします。私が訳します。

四 年 春 正 月 , 大 雪 , 平 地 深 三 尺 , 鳥 獣 死 者 大 半 . 夏 四 月 , 遣 ■ 将 軍 全 j 略 淮 南 , 決 芍陂 , 燒 安 城 邸 閣 収 其 人 民 . 威 北 将 軍 諸 葛 恪 攻 六 安 . j 与 魏 将 王 凌 戦 于 芍 陂 ,中 郎 将 秦 晃 等 十 余 人 戦 死 . 車 騎 将 軍 朱 然 圍 樊 ,大 将 軍 諸 葛 瑾 取 柤 中 .[一]五 月 , 太 子 登 卒 . 是 月 , 魏 太 傅 司 馬 宣 王 救 樊 . 六 月 , 軍 還 . 閏 月 , 大 将 軍 瑾 卒 . 秋 八 月 , 陸 遜 城 邾 .

・■はnet上の漢籍史料での欠字(日本語では表示できない文字)です。
・王凌はニスイではなくサンズイです。
・芍陂(しゃくは)、柤(そ)、邾(ちゅ)、これらの文字は携帯などでは文字化けしたり別の字に変わっているかもしれません。注意してください。
(PC)
35 皇澪桜
諏訪殿>
朱桓のエピソード上げ感謝ですm(__)m
ここの掲示板で孫権って処罰しなかったみたいな話を見かける機会が多い気がしますがその辺りはどうだったんでしょうか?
巫俊さん>
申し訳ありません。一応読もうとしてみましたがどう読んでいいのか分かりません…簡単にでもいいので訳していただけると有り難いです。
ちなみにこういった文の訳はこのサイトの売店にある正史を購入すれば読めるのでしょうか?
(W52CA/au)
36 諏訪
孫権は、228年に「重罪が三つあってはじめて諸将の罪を問う」と布告しているように、武将たちにかなり甘かったようです。
もともと孫家は乱世の成り上がりであるため、君臣間の繋がりが弱く、こうした対応になったのではないでしょうか。
(W51S/au)
37 皇澪桜
なるほど…孫権自身が寛容だったというよりかはそうせざるを得なかったってことですかね…
(W52CA/au)
38 朱家
朱桓の場合は、呉の名族であり、同族の朱拠は孫権の娘を妻としており、朱桓にしても、名族にあぐらをかくような人物でもないですからね。
名臣韓当の子、韓綜は素行が悪く、父の功績によって孫権は許していたが、罪に問われる事を心配し、魏に降っており、態度ではなく、布告を出したものでしょう。皇帝即位へのパフォーマンスかもしれませんし、一概に部将といっても、功績には差がありますから、孫権のさじ加減ですし、厳密に施行されてる訳でもないですからね。
韓綜は、魏で罰せられてないと思われ、呉では父の功績に甘えていたのでしょう。
ちなみに韓綜は、魏で将軍となり、国境を荒らしまくり、孫権は後悔していて、後に諸葛恪が斬り、孫権の廟に報告していますね。
(PC)
39 赤龍
>>34
ここに参加される方は、漢文を読みこなせる方ばかりではないと思いますので、論点の部分のちくまの該当部分の訳を引用しときますね。

夏四月、衛将軍の全jを遣って淮南の地を攻め取らせ、芍陂を決壊し、安城の邸閣を焼いて、その地の住民を捕虜とした。威北将軍の諸葛恪は六安を攻めた。全jは、魏の部将の王凌と芍陂で会戦し、この戦いで中郎将の秦晃ら十余人が戦死した。
車騎将軍の朱然は樊を包囲し、大将軍の諸葛瑾は柤中を占領した。
五月、太子の孫登が死んだ。
同月、魏の太傅の司馬宣王が樊の救援にやって来た。六月、(諸方に出征していた)軍を帰還させた。
(PC)
40 赤龍
多方面からの魏領に対する侵攻であり、たしかに「積極的な攻勢」を示すものといえるでしょう。
しかし、その一方でこの箇所に対する注として、殷礼という人物が
「陛下自ら出陣し、蜀軍とも連携し、四方面からの大攻勢をしかければ、必ず魏に勝利することができましょう。これまでどおりの小規模な作戦を展開してては、大きな戦果を挙げることは不可能で、じり貧になってしまいますよ」
と進言し、孫権はこれを用いなかった、という内容が書かれています(思いっきし端折ってます)

「積極的な攻勢」ではあっても「小規模な作戦」であり、本腰を入れた大戦にはなかなか踏み込もうとしない。この時も、引き際もわりとあっさりに感じますし。
こうしたあたりが、読む人によっては、慎重であり、外征に「消極的」にも映ってしまうんじゃないでしょうか?

ちなみに、赤烏四年の戦役に名を連ねる人物の伝を各自参照しますと、いずれもこの件には全く触れられていません。あまり特筆するほどの戦果が挙げられなかったのかもしれないですね。
(PC)
41 巫俊(ふしゅん)
孫ぽこさんの「呉書見聞」という呉考察専門のサイトで、以下の記述を確認しました。
−−−引用始まり
250年には,魏の文欽が寝返ったふりをして,朱異らをおびき寄せようとするが,朱異が慎重に行動したため,この計画も無駄に終わった。同年,魏は呉が皇太子問題で分裂している事から,州泰が巫・秭帰に,王基が夷陵に,王昶が陵に攻撃をかけてくるが,戴烈(たいれつ)と陸凱(りくがい)がこれを防いでいる。また,孫権は軍勢を率いて,魏の南進のための通路を水没させている。
−−−引用終わり
250年に魏の州泰らが呉の皇太子問題から侵入を企てた、という趣旨の解釈が施されています。

http://f27.aaa.livedoor.jp/~sonpoko/
(トップ)
http://f27.aaa.livedoor.jp/~sonpoko/sonken33.html
(引用ページ)
(PC)
42 赤龍
>>35
はい、私が>>39で引用したように、基本的に正史の完訳です。
非常に便利なものですが、文庫サイズのくせに全8巻揃えると1万円を超える、かなり高い、財布に厳しい買い物にもなります(笑)
いきなり正史そのものに当らなくても、色々分かりやすく一般向けに書かれた読み物の類もありますし、よく考えた上でご購入を。
(PC)
43 巫俊(ふしゅん)
>>35
筑摩書房の『正史 三国志』シリーズ、ちくま訳と略称されています。
ちくま訳の特徴は意訳が多いということです。漢文(古典中国語)を読んでいるとしばしば主語を欠いていたりフルネームを欠いた文章に出くわします。
或いは目的語がまったく書かれてなくて主語と動詞だけの文章なんかもあったりします。
ちくま訳はこうした点に留意して現代日本語で意訳しているので漢文初心者でも安心です。

赤龍さんがおっしゃるように非常に便利ですが、幾ら現代日本語に訳されているといっても歴史書としての構成は古典中国語の漢文と同じです。
赤龍さんが心配されてるのは、高額だからということもありますが、興味を持って持続的に『三国志』を読み続けることができるか?という点であると思います。

ただ、私の考えとしてはちくま訳は平易である訳ですし、皇澪桜さんも呉については広範な興味を持っておられるようなので、読むこと事態は問題ないんじゃないかと思っています。

持続して読むコツは、その日読書する際、興味があって調べたいことをしっかり意識して読んでいくことですね。
漫然と読んでいると、飽きてくる人がいることも確かです。
訳本を目の前にして、自身が何をしたいのか、三国志に何を求めているのか、考えることが大切です。

そしてちくま訳も正確さという点では完全なものではありません。
とくに語訳は目立ちます。黄権の事績が孫権の事績として誤訳されていたり、顧雍の年齢を10歳若く誤訳していたりします。
しかし、ちくま訳の他に『三国志』を完訳したものはなく、ましてや三国末期の人物の事績を多く載せる正史『晋書』は日本語訳が刊行されていません。

つまりちくま訳は相当に貴重なんです。
都道府県によっては、県内の他の図書館にある図書を最寄りの図書館まで届けてくれる制度を整えていることもあります。
私の住む三重県では地元の市にはちくま訳がありませんが、三重県立図書館には置いているのでしばしば取り寄せてますよ。

あと、『世界古典文学全集』シリーズというものを筑摩書房が出していて、もう絶版だと思いますが、文庫版のちくま訳は『世界古典文学全集』の三国志の巻(全三巻)を八巻に分けて収録したものです。
(PC)
44 巫俊(ふしゅん)
>>35
地域別の掲示板を確認すると、皇澪桜さんは愛媛県に住んでらっしゃるということなので、松山市の愛媛県立図書館のサイトを調べたところ、ちくま訳の『正史 三国志』を所蔵しているとのことです。
しかも愛媛県でも私の住む三重県と同様に、愛媛県の市町村の図書館の窓口で県立図書館の『正史 三国志』を貸し出し(「相互貸借」)できるようではないですか。
という訳で、皇澪桜さんが今も愛媛県に在住されているならば、県立図書館のカードを発行して貸し出し手続きをするだけで、とりあえずちくま訳が手に入るではないですか。
(PC)
45 巫俊(ふしゅん)
>>43
×とくに語訳は目立ちます。
○とくに誤訳は目立ちます。
(PC)
46 皇澪桜
赤龍さん
和訳ありがとうございますm(__)m
私は呉は防衛ばかりであまり攻めていないように思っていました。
大幅な侵攻って程ではないにしても呉から攻めたことも幾度かあるというのは分かりました。
巫俊さん
色々調べていただいてありがとうございます。巫俊さんがあげられた文などが読めるのなら近々買おうかなと思っていたのですが…一度借りてみた方がいいですかね?この掲示板に参加してらっしゃる皆様も持ってるようですし買っちゃおうかと思うのですが…
(W52CA/au)
47 巫俊(ふしゅん)
>>46
財布とご相談してください。
例えば以下のような刊行物があります。
『中国歴史地図集』(八冊で構成、前漢後漢、三国西晋の二冊は三国志研究に必須、ただし解像度版はnetで読める。現代中国語で表記されています)
『三国志集解』(裴松之より後の時代の知識人による三国志の注釈、日本語訳は無し)
『華陽国志』(漢中、巴、蜀、南中(雲南)の歴史書、人物伝。東晋時代に蜀の人によって書かれた。一部が日本語訳されている)
『後漢書』(日本語による全訳刊行中、ただし高額)
『後漢紀』(一部が日本語訳されている)
三国志を研究しようとすれば、これくらいは買い揃えたくなるものです。
ところがこれらは高額でして、すべて買えば数十万円はすると思います。
(PC)
48 巫俊(ふしゅん)
×解像度版
○解像度の低い版

それで私の場合ですが、私は三国志関係の刊行物を買ったことがありません。
持っているのは小学生のときに買ってもらった『三國志4武将ファイル』(光栄)だけで、三国志関係の論文、地図、史料、本などはすべて国会図書館などの非常に蔵書の多い図書館かnet上で読んできました。

でも、こうした読み方で知識が身に付く人は少ないみたいで、読書のコツは慣れですからちくま訳くらいは素直に買った方がいいのかもしれないと思って薦めています。
(PC)
49 皇澪桜
なるほど…。来月頭にはボーナスが入りますし購入しようと思います。
大分議題から離れてしまいましたが引き続き呉将について語っていきましょう!
皆さんの好きな呉将は誰ですか?(できれば単独スレのない武将で…)
(W52CA/au)
50 李三
誰か全ソウについて語る人はいないんですか?
彼のエピソードで好きなのは、周瑜が死んだ時に呉に来たホウ統を見送りに行ったそうなのだが、その時に評されて「あなたは施しを好み名声を慕い、(中略)智力は多いとはいえませんが、やはり時代を代表するすぐれた人物です」と。(ちくま訳より)
微妙!
(912SH)
51 巫俊(ふしゅん)
今のところ、全{王宗}の親父の全柔の方が好きです。
とりあえず全{王宗}は呉後期の軍事を考える上で、前期と後期の過渡期あたりにいる重要人物なのかなと思っていますが、これはなんとなくそう思っているだけの「感」です。
(PC)
52 皇澪桜
関連スレ上げ(全ソウについて)
>>>67呉の不人気きついて…
>>>246明党の禍について
飛べるかなぁ…以前やって失敗したので不安…
(W52CA/au)
53 皇澪桜
失礼…
× 明党
○ 朋党
(W52CA/au)
54 李三
>>52
皇澪桜さんありがとうございます。飛べました。
全ソウ、語られてますね。

>>51
巫俊さん、私も同様の印象を受けています。
(912SH)
55 諏訪
全ソウについて気になることがあるのですが…
ちくま訳の『呉主伝』によると、全ソウの没年は247年になっていますが、『全ソウ伝』では249年になっています。
どちらが正しいのでしょうか?
(W51S/au)
56 赤龍
原文を参照しても、やはり呉主伝では「赤烏十年」で全ソウ伝では「赤烏十二年」
他に赤烏十〜十二年に全ソウに関して、生存なり死亡なりわかる記述があればいいんですが、見つかりませんし、判断しようがないというしかありませんね。
参考までに『集解』では盧弼はどっちかわからないとし、銭大昭は「赤烏十二年」の「二」の字は誤りなのかもしれない、と推測してます。
(PC)
57 諏訪
赤龍さん、ありがとうございます。やはり、よくわからないようですね。
(W51S/au)
58 皇澪桜
先日大きめな本屋がオープンしたので正史があるか探してきました…当然のようにありませんでしたが。これだから田舎は…(汗)
せっかくの呉を盛り立てるスレなので気になる人物を上げていこうと思いますが…。呂蒙について。私が持っている三國志演技系漫画で呂蒙は急に怯えて病気になったふりをし、チャンスになると陸遜の功を奪うようなこずるい男でした。その影響もあり呉下の阿蒙にあらずの話を聞いても今一好きになれませんでしたが、蒼天で随分イメージが変わりました。彼はどんな人物だったのでしょうか?
長文申し訳ないですm(__)m
(W52CA/au)
59 皇澪桜
呂蒙スレ >>>303
見落としてました…。呂蒙はそちらで語るとして…
武芸に最も秀でた呉将は誰だと思います?甘寧?
(W52CA/au)
60 革離
はじめまして!ネームの革離は墨攻のそれです、 本題にはいると呉最強は陵刀じゃないかと思います
(V705SH)
61 皇澪桜
今日コーエイ三國志11武将ファイルを見てました。一人気になったのは孫コウ【白交】…関羽討伐で功をあげた後に病死…。
あり…蒼天では関羽に斬られてましたよね?正史ではこちらが正しいのですか?
蒼天航路は主に正史準拠…上記の武将ファイルは演義・正史両方書いてあったりどっちとも書いてなくて…正史を持ってない私には解りません(汗)どなたかご教授下さい。
(W52CA/au)
62 李三
あまり詳しくないので恐縮ですが、「ちくま訳」を持っているので確認してみました。
孫静の子の孫皎ですが、彼の附伝では219年に死去した、となっています。
関羽戦の後なので関羽には斬られていませんが、特に死因は書いて無いので、おそらく病死としか言えないですね。
以上、一応、速報ということで。
(912SH)
63 皇澪桜
>>62
ご教授感謝です。甘寧との喧嘩エピソードなどは知っていますが…この人なんか蒼天で見て初めて知りました(汗)
(W52CA/au)
64 皇澪桜
>>13-28
あたりで語られた内容に相応しいスレが初心者質問板にありました。
以前に目を通したはずのスレなんですが…再度勉強せねば…f^_^;
アドは禁止用語を含んでいるようなのでタイトルで…
「呉とギの関係」
スレ主 銀さん
(W52CA/au)
65 嵐山
徐盛スレは無いのかな〜

て思ってたら、このスレッド発見したけど、あまり個人については語られて無い様ですね

徐盛単独スレありますでしょうか?無い様でしたらここ使わせていただきますね
(SH906iTV/FOMA)
66 皇澪桜
>>65
該当スレは見たことないですねぇ…
こちらは単独スレを建てるには微妙な将や、同時に複数の将を語るスレです。
徐盛単独スレとなるとちょっと微妙ですし、こちらで語るのが妥当な気がします。
(W52CA/au)
67 バンビ
元々呉のスレ自体が少ないですもんね。
馬忠なんかは個スレがあるけど(笑)
(W54T/au)
68 皇澪桜
>>67
蜀漢に比べりゃ、資料の量も多いし、語れば深い武将も多いのでしょうが、やはり知名度・人気・興味共に魏・蜀漢には及ばないですし…
私は、演義のリバウンドで蜀将の評価が下がり、蒼天の影響で、魏将の評価が大幅に上がり、呉将は興味が出てきた位というのが正直なところ…
活字は嫌いじゃないですが、なかなか正史を深く読み解くところまでいけないのが現実で、お恥ずかしい限りです…
(W52CA/au)
69 皇澪桜
徐盛についでですが、字を文郷(ブンキョウ) 正:郷の下に(向)
(王良)耶国の(草冠+呂)の人。
正史を当たってみると、内容は人物辞典にほぼ載ってる通りでした。
知勇兼備の名将と言えるでしょうね。
忠義にも厚かった様です。
(W52CA/au)
70 嵐山
有り難うございます(^_^)

徐州出身の人だったんですよね
孫策時代に配下になったのかしら?

呉のこの頃の主だった戦に参戦してる様ですね
赤壁、合肥……うん?夷陵にも参戦してますよね?
(SH906iTV/FOMA)
71 皇澪桜
>>70
具体的な任官時期の記載がないので私にはちょっと分かりかねますf^_^;

世の中が乱れてきたので、故郷を棄てて呉郡に仮住まいし、度胸と義気とがあることで知られた。孫権が呉の勢力を取り纏めるようになると、徐盛を別部司馬に任じて、兵士五百人を授け、柴桑県の長の任にあたりつつ、黄祖の進出をくい止めさせた。
とあります。
夷陵戦についてですが、劉備が西陵まで出てきてそこに軍営を置くと、徐盛はそれに攻撃をかけて蜀漢の屯を奪取し、軍を向けるところことごとく手柄をたてた…とありますので、参戦して活躍したようですね。
失敗談なんかは本人の伝に記載されないので、色々と調べたりしないと何とも言えませんが、かなり、優れた名将ですね。
長文失礼しました。
(W52CA/au)
72 嵐山
智勇兼備のイメージ強いですよねぇ…


彼の智を象徴するエピソードはあるのでしょうかね?
(SH906iTV/FOMA)
73 皇澪桜
少し長くなりますが、ちくま訳、徐盛伝より…

魏の文帝が大挙して軍を進めて長江をおし渡ろうと企てた。
徐盛は献策をし、建業からずっと防護のための壁体を作り、それにすだれを架けわたし、壁体の上に仮作りの楼(ヤグラ)を作りつけ、長江上には船を浮べ敵が近づいて偽の城壁だと察知するのを防がせればよいと述べた。
武将たちはそんなことをしても無駄だといったが、徐盛は譲らず、強硬に主張してこれを作った。
文帝は広陵までやって来て、防御壁をながめてびっくりし、それが数百里に及んで攻めるところがなく、しかも長江の水かさも増していたことから、そのまま軍を纏めて退却した。
武将たちも、ここに至って彼の計略の正しさを認めたのだった。
『魏氏春秋』にいう。
文帝は嘆息をしていった、「魏には武装をした騎兵の部隊が千もあるが、これではそれを用いる所がない。」
偽城の計というのかな…。
他にもありましたら、ご教授下さいm(__)m
(W52CA/au)
74 ピエール.
話をぶった切るようで申し訳ないですが
三国志末期が大好きな私としては丁奉をあげたいですね。

名門や豪族の出ではなく小部隊長からたたきあげで呉の宿老となった彼には、陸孫などおなじみの人物が亡くなった後にも国を支えた名将というイメージが大きくあります。

個人的な丁奉のベストシーンは「東興の戦い」です。諸葛格をはじめ、諸将が魏軍を軽んじている中で一人喝をいれるところですね。
孫権死後の呉にとっての大一番での彼の存在感はかっちょい〜と思いました。
(W51SH/au)
75 皇澪桜
>>74
名は知っていたものの、どんな人か分からなかったので、丁奉伝を読んでみましたが、かなりの名将ですね。
晩年の失敗も丁奉のせいではないのに…
人柄を嫌われたのか、死後、孫皓に家族を強制移住させられているようですね。
ピエールさんのあげられたエピソードの他にも、武力、知略ともに優れた人物を示すエピソードに溢れてますね。
(W52CA/au)
76 赤龍
>>75
死後に家族を強制移住の件ですが、晩年の失敗は表向きの名目のように思えます。
丁奉伝には、出世にともない傲慢になり、嫌われつつあったことが書かれています。
さらに、孫皓伝注には、万イクらと共に、孫皓の行動への不満をもらしていたこと、陸凱伝には、孫皓廃立の謀議に参加していたことさえ記述されています。孫皓にとっては、目障りな不穏分子となりつつあるものの、即位時の功臣でもあるため、生前はなんとか目をつぶっていたようです。

これに限らず、この人って呉で政変が企てられるたびに、やたら引っ張りだされる印象があります。文官達の政争に利用されやすい、単純な人物だったか?それとも自身も陰謀を好む野心家だったか?
(PC)
77 李俊
はじめまして李俊といいます。自分が好きな呉の将は賀斉です。戦功多くて平東将軍になってて見た目も派手な人なのに演義には出ない。そんな賀斉が好きです
(811SH/SB)
78 赤龍
>>77
李俊さん、はじめまして。
蜀とのからみも無く、演義に出さしてもらえなかった賀斉。まさに隠れた名将という感じですね。

久々に、こちらのブログの方に賀斉のネタで投稿させていただきました。
(PC)
79 李俊
赤龍さん、ブログ拝見しました。戦歴、実績もあるのに山越退治のイメージが強いから出さなくていいかってなったんですかね
統治も非凡で素晴らしいのにな…
(811SH/SB)
80 バンビ
赤龍さん今更ながらブログ拝見させてもらいました。
凄い調べ様ですね。
ちなみに、自分も賀斉好きです!


何故彼は山越ばかりだったのでしょうか?
やはり名が知れ渡っているからですかね?
ですが、優秀な賀斉を魏との戦いにもっと出しても良かったのではないかと思うのですが皆さんどう思われますか?
(W54T/au)
81 赤龍
ただ戦に強いだけでなく、山越達を慰撫し懐柔するなど、治の面での才にも長けていたためかもしれませんね。
「内乱平定のスペシャリスト」とか言ってみると、それはそれでかっこよくないですか(笑)

それに、彼のような人物が、内の乱を治め、後方を固め、兵を集めていたからこそ、外で魏や蜀と渡り合えた。そう考えると、地味ながらも彼の果たした役割は魏や蜀と華々しく戦った将軍達に並ぶものとも思えます
(PC)
82 ナナホッシー
久々に来てみた。2年ぶりくらいかも。

なぜか。

コブクロのツアーがまもなく始まるから。

じゃなくて。

ただいま賀斉がいかにスゴイ武将だったかを研究中だからです。

この名将に、ニ○ニコ動画で脚光が浴びせられたのはいいことであります。
(PC)
83 ナナホッシー
連続投稿失礼。
ご存知かとは思いますが、呉に限らず異民族統治というのは国の防衛基盤にかかわる問題であります。
と同時に、呉の政権がある意味魏の南征よりも対越に力を注いだのは、孫呉政権が絶対君主制ではなく、有力家臣たちによって造られた基盤の弱い政権だったから、ことも忘れてはなりません。
山越の影響下に支配地を持つ呉の名族たちにとって、自分の領地を守るためには山越対策は不可欠、ということは、有能な統治責任者を出すのが必然でしょう。で、その役目は賀斉に託された、というわけですね。
(PC)